2006年12月10日


『しるし』 イザヤ7:1−17


7:1 ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めたが、戦いに勝てなかった。

7:2 ところが、「エフライムにアラムがとどまった。」という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。

7:3 そこで主はイザヤに仰せられた。「あなたとあなたの子シェアル・ヤシュブとは出かけて行って、布さらしの野への大路のそばにある上の池の水道の端でアハズに会い、

7:4 そこで彼に言え。気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。

7:5 アラムはエフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企ててこう言っています。

7:6 『われわれはユダに上って、これを脅かし、これに攻め入り、わがものとし、タベアルの子をそこの王にしよう。』と。

7:7 神である主はこう仰せられる。『そのことは起こらないし、ありえない。

7:8 実に、アラムのかしらはダマスコ、ダマスコのかしらはレツィン。・・六十五年のうちに、エフライムは粉砕されて、もう民ではなくなる。・・

7:9 また、エフライムのかしらはサマリヤ、サマリヤのかしらはレマルヤの子。もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない。』」

7:10 主は再び、アハズに告げてこう仰せられた。

7:11 「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」

7:12 するとアハズは言った。「私は求めません。主を試みません。」

7:13 そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。

7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。

7:15 この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる。

7:16 それは、まだその子が、悪を退け、善を選ぶことも知らないうちに、あなたが恐れているふたりの王の土地は、捨てられるからだ。

7:17 主は、あなたとあなたの民とあなたの父の家に、エフライムがユダから離れた日以来、まだ来たこともない日を来させる。それは、アッシリヤの王だ。」

 

  このアドヴェントの季節というのは、信仰者にとっては本当にワクワクする季節ですね。

今朝の説教のタイトルは、イザヤ書7章から「しるし」であります。「信仰の目でしか分からない確かなしるしがあります。ですからそのしるしを見極め、全能の神がともにいてくださることを感謝しましょう」とういうことで、お話したいと思います。

   御存知のようにこのテキストは、クリスマスの時にしばしば開かれるところです。またこの個所はマタイの福音書の降誕物語にも引用されております。

   最初に覚えていただきたいのは、多くの人々がイエス様を信じるきっかけを考えます時、しるしと申しますか、奇跡と申しますか、そういう超自然的なものが、かなり大きな部分を占めるという場合があります。

例えば「神癒」ということですが、私たちの伝道の初期に、すでに召された方ですが、韓国のチョエ先生(ハレルヤ・ママと呼ばれていた方です。)が、私たちが住んでいた小さなアパートにまで来てくださって集会を持ってくださったことがあります。彼女は、ガンが癒されるのはあたりまえと言う感じで、(彼女の日本語では「ガンが落ちる」という表現をしていました。)ニコニコ笑いながら、「ガンはきれいに落ちます。断食三日してごらんなさい」と言った感じで話しました。そういう奇跡のような癒し方がなされますと、それを主がなさったしるしとして、癒された当人だけでなく、周りの人達もイエス様を信じることは実際にあることです。ある教会では、そういう奇跡と不思議が日常茶飯事に起こるようです。残念ながら、同じペンテコステの教会ですが、そういう顕著なしるしや不思議がないからか、今のところ私どもの教会には、そうたくさんの人が集まりません。けれどもこれは、この教会には祝福がないというしるしではないのです。その理由は、この説教を聞いていくとわかります。

   テキストは、イスラエルの分裂王国時代で、北イスラエルが滅びるちょっと前です。北イスラエルの王はペカ、南ユダはアハズという王様でした。北イスラエルはアラムのほぼ子分的な存在で、独立国家の気概などなく、兄弟分のユダ王国を、アラムと一緒になって脅かしていたのです(7:1)。つまり北も南も、非常に厳しい国家運営を強いられていた時代でした。

  難しい状況になると、今日人々が考えることは、テクニックですね。北イスラエルも南ユダも、言うなれば大国、強国に囲まれております。そういう状況での弱い国の国家運営は、強そうな国となるべく有利な同盟を組んだりするという、外交テクニックになりがちです。

   最近日本の景気も多少持ち直してきたようですが、不景気で将来画不安な時の世渡りテクニックは、お金をしっかり持っていないとだめということで、お金を握って放さないという人が多かったように思います。こういう時に、何か「このしるしを見たら、絶対大丈夫」というしるしがあるなら、とても安心だと思います。

  ここに記されているのは、「主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」であります。実は、ここでアハズ王が、「私は求めません。主を試みません」と言っているのは、謙遜さや、神を敬っての言葉ではないのです。むしろ神に対する不信を覆い隠す言葉なのです。この絶対者なる主のしるしを、またその預言者の言葉を受け入れる信仰がないのですね。

  ですから第二に覚えてもらいたいことは、「信仰がなければ、本当のしるしも、しるしにはならないということです。

  実はこれは、私ども信仰のある者たちにとっては正直な話、驚くべきしるしの奇跡です。何故なら「処女が身ごも」るからです。創価学会の人たちの、折伏教典を以前に読んだことがあります。それには、「そういう非科学的なことはあるはずがない」と一蹴していました。ですからよく考えてみれば、これは私たち信仰者の立場から考えれば奇跡ですが、世の中の人たちから考えれば未婚の女性が妊娠することは、今日いくらでもあることで、しるしにはならないということです。

   私は若いころ、しばらく大工さんの手伝いをしたことがありました。その時その大工さんは、キリスト者である私に、「大工と言うのは大体がワシらみたいに間抜けだから、ヨセフとかいう大工も、マリヤに騙されたんだわ。他に男がいたに違いない」と申しました。

   実際、マリヤが通常のリプロダクションのプロセスを経ずして、妊娠したということは、聖書にあるマリヤの言った「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに(ルカ1:34)」とか、マタイの記述「その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった(マタイ1:18)」を信じる以外にありません。つまりこのしるしは、世の信仰のない人々に対しては非常に説得力の弱いしるしなわけです。

   ノン・クリスチャンの世界だけでなく、キリスト教内部でも、この「処女」という原語が、「若い女性」という意味がある言葉で、「処女」と訳すべきではないと言う人たちがおります。現に英語では、RSVやNEBでは、A young woman と訳しています。日本語の場合、口語訳、新共同訳では、「おとめ」として、これを「乙女」と漢字にしないところがミソですね。かなの「おとめ」の場合、単なる「若い娘」の意味にもとれますし、「生娘(処女)」の意にもとれるからです。柳生訳では、「処女」と訳し、「おとめ」とふりがなをつけています。つまりキリスト教世界でも、この「ヴァージンが身ごもった」ということについては議論がたくさんあって、神的な「しるし」にはなりえないのが現状なのです。ただ、これが「若い婦人」であっただけなら、「しるし」にはなりません。「処女」だから、そしてそれをそう信じるから「しるし」になるのです。

   イザヤの時代、南ユダがあの困難な時代を生き抜いていくために、全能の神が共にいてくださるという確かなしるしを与えられているのです。けれどもそれが神からのものであるという信仰がなければ、どんな偉大なしるしも、しるしにはなりおうせないのです。正直な話、キリスト教会に来て、祈ってもらって癒されたら、それは本当に喜びでしょう。そして信じなかった人たちが、信じるようになることは容易に予想できることです。けれども、こういう「しるし」はやはり、強力ではありますが、絶対的なものではありません。

  韓国のチョエ先生の話をしましたが、彼女は、あの会員数が75万人とかの、シングル教会では、世界でもっともメンバーの多いヨイド純福音教会の牧師、チョー・ヨンギー先生の義母です。チョー先生は一時日本へよく来て、日本の一千万人救霊のために祈り、また奉仕をしていました。彼は非常な癒しの伝道者でしたが、日本の創価学会とか、生長の家、真光、天理教といった異教もまた、癒しをやることを認めておりました。そういうところで癒された人は、なかなかイエス様の元にはこないでしょう。ほんものしるしは、聖書も「彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた(マルコ16:20)」と言っているように、御言葉に伴っていないとだめなのですね。

   つまり、「癒し」という奇跡が、異教にも行われるという理由で、信仰のない人達にとっての絶対的なしるしにならないように、この「処女がみごもっている」というしるしも、「しるし」は「しるし」ですが、決して誰にでも明らかな決定的な、天地万物の創造者による「しるし」にはなり仰せないのです。

  アハズと、南ユダには、そういう信仰がありませんでした。その意味で、それだけでは「間違えやすいしるし」とでも言えましょう。ただ、この「間違えやすいしるし」も、その預言の言葉を信じている人がいる、という極めて、驚くべき「しるし」があります。

   そこで三番目に知って頂きたいのは、「言葉を信じている」という、つまり御言葉を聞いただけで信じたという、驚くべきしるしがあります。彼らの信じた言葉は、間違えやすいとか、普遍的でないとか、そういうたぐいではなく、御言葉を信じたものは皆例外なく、救われて永遠の命をもつのです。これは驚くべき奇跡であるということです。

考えてもみてください、クリスチャンという種類の人達は、処女が身ごもったと、本気で信じている、世の中の人から見たら、実に奇跡的な人達です。彼らは目には見えないのに、神がおられると本気で信じている人たちです。また実際に会ったことはないのに、イエス様は復活なさって今も生きておられると主張する、世の中の人達からしたら、超不思議な人達です。彼等の中には、確かに癒しや、何か目に見える奇跡を見て、神を信じた人もおりますが、大多数の人達には、もっと信じがたい奇跡が起こって信じたのです。

   それはただ、聖書の言葉を信じただけという奇跡です。新約聖書には、御存知のようにイエス様が復活なさったことが出ております。あそこに至るまで、弟子達はどれくらい主がなさった癒しのみ業を見てきたことでしょう。けれども、イエス様が復活なさったことは、復活なさった主にまみえるまで信じませんでした。復活なさった主は、そのうちの一人トマスに、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです(ヨハネ20:29)」と言われました。

   そうしてみると、今日イエス様を信じている者は、見ないで信じた者たちです。癒しや、奇跡と言われるようなものを体験して信じた人もいるかもしれませんが、多くはただ、聖書の言葉を聞いて信じた人達です。これは驚くべき奇跡ではありませんか。

   さて最後に知ってもらいたいのは、その「処女が身ごもって男の子を生む」という預言を、信仰の目をもって、確かな神の言葉と信じた人たちは、どういうことになるのでしょう。

マタイの福音書では、「『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」とあります。これはこの言葉、すなわち神(ヨハネ1:1)は、処女が男の子を生んだと信じた人達と共にもおられると解することが出来ましょう。考えてみれば、当時の人たちでも、この子がベツレヘムで生まれることまで聖書の預言から知っていた人たちがいたのです。ただ、知っていることと、信じていることは、違います。羊飼いや、東方の博士達は、預言を神からのものと信じて、幼子を礼拝しましたが、ヘロデのように、この子が、インマヌエルの神と受け入れないような人は、この子を殺そうとさえしたのです。

    私たちにもこれまで、経済的な困難は何度かありましたが、私たちの場合、イザという時には、イザヤを開いて、道が開かれてきたのです。実際、私どものこれまでの伝道者としての歩みの中で、しばしばイザヤ書によって助けられました。なんのことはない、ただ聖書の言葉です。しかし私が皆さんに期待するのは、そういう言葉を信じると言う奇跡です。「処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」という、しるしも、聖書に書いてあるから、信じるという奇跡です。

   ヨハネの福音書1:12には「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」とあります。

   仮に癒しや不思議が、その人に起きなくても、その人は神に愛されていないのではありません。そういう人達も癒しや不思議を信じることは出来ます。そういう風に信じ続けて、何年も信仰を守っている人は、確かに、主が共におられるという確かなしるしです。

   何度も話しますが、今から25年前のクリスマス時期、私たちは本当にお金がなかったのです。しかし私ども夫婦は、「彼らはあなたに呼ばわって救われ、あなたに信頼して恥をうけなかったのです(詩篇22:5)」の御言葉を信じておりましたから、信じて従う者は、恥を受けないという信仰がありました。あの何もない、引っ越し中で、クリスマス・ディナーも、子供達にクリスマス・プレゼントも買えない時も、当時セントルイスの一人の未亡人を訪問したことがきっかけで、素晴らしいクリスマスを祝うことが出来たのです。神は私たちと共にあったのです。

  「ガンが癒された」ということは、本当にハレルヤで、私たちの間でも見たいと思いますが、それは普遍的なしるし、あるいは奇跡ではないと思います。つまり必ず起これば必ず主を信頼するようになるかというとそうはならない場合もあるのです。

   「処女が身ごもって男の子を生む」 これを、まさに神が預言者を通して語られた「しるし」のメシアの預言として、そのまま信じることが大切です。そして今後は、どんな場合でも聖書の言葉を信じるという要領で生きていくのです。この奇跡がおきた人たちには、神が共におられて、神のこどもとさえされるのです。全能の神が共にいてくださるなら、どんな困難にも打ち克てるのです。

   「処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」の預言の成就であったと、信じましょう。そうして全能の神が共にいてくださることで、困難に打ち克つ力を頂きましょう。         祈りま しょう。