2006年12月31日


『イエス様が神様』 1ヨハネ5:18−21


5:18 神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。

5:19 私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。

5:20 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。

5:21 子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。

今では、カメラはすっかりデジカメの時代になってしまい、もはやフィルムを使ってのカメラは殆ど売れなくなり、キャノンやニコンと言った日本の名のあるカメラ・インダストリーも、その生産を縮小、あるいは停止していますが、私たちがアメリカに来た時分は、まだまだフィルムのカメラは全盛で、日本製のカメラは非常に人気がありました。イザと言う時には、それを売って食いつなごうと思って、私は当時人気のあったキャノンAE-I というカメラを日本から持って来ていました。記憶では、日本では確か6万円以上払ったと思います。ミズーリにいた時、時々それを取り出すと、外国人学生が羨望のまなざしで、見つめていました。インドから来た青年は、「売ってくれないか」と尋ねてきました。「君のうちは金持ちなのだから、インドで買えばよかったのに」と言うと、「だめだ、インドでは。ニセ物が多いから」と言うのです。私が、キャノンのニセモノのことを意識したのはそれが最初です。その後、メキシコに行くようになって、ローレックスの腕時計のニセモノを見ましたし、買いました。これは明らかにニセモノと分かっていて、面白半分に買ったのですから、壊れても被害はありませんが(大体ローレックスが20ドルで買えるわけがない。そしてそのニセモノ・ロレックスはメキシコから、サンホゼに戻る間に動かなくなりました。)、キャノンだのニコンだのといったカメラを本物だと思って、価格より20%くらい安い値段で買って、それがニセ物だと分かったら、悔しいでしょうね。

しかし、キャノンにしてもニコンにしても、それは有名だとしても、「物」です。「あーあ、損しちゃった」で済みます。しかし「神」のニセ物をつかまされると、本当に大変なことになります。これは命に、永遠の命に関っているからです。

2006年最後の礼拝は、「イエス様が神」という点を、もう一度確認したいと思います。この年の初め、私どもは、IIテモテ1:13の、「あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい」を年間の聖句に掲げました。今年も牧師である私自身、さまざまな教えの風に影響される危険がありましたが、純正な聖書の言葉からの教理をお伝えしてきたつもりです。教会の方針については、私たち夫婦でも議論することがあります。けれども私は、聖書の教理を薄めたり、水増ししたりせず、そういう説教で、人が来ないのなら、仕方がないと思っています。そして、今、年末最後の礼拝で、この「イエス様が神」をもう一度しっかりと覚えましょう。

イエス様が神です。ですから聖書の証言を吟味し、ニセ物に惑わされず、永遠の命を受け継ぐ者になりましょう。

I ヨハネは異論があるにせよ、私どもの間では使徒ヨハネが記したといわれています。つまりヨハネ福音書とかヨハネの黙示録と同じ作者です。彼は、イエス様の復活の証人です。また彼は使徒たちの中では一番長生きした人のようで、この書簡も、第一世紀の後半に書かれているようです。つまりこの時代は、キリストの復活から、60年位経っているのですが、もうすでにキリストの神性に対して疑問を呈する輩がいたのです。霊肉二元論で、キリストの神性を認めず、霊を高調したグノーシス派というグループの教えが流行していたのです。キリストの否定ではなく、まがい物のキリスト教ですね。 

第一に覚えていただきたいことは、まがい物があるということは、真実なものがあるという証拠でもあるということです。

テキストは、「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい」と言います。本物以外のものは、みな偶像になりうるのです。

  最近、私はちょっと統一教会の問題に関わっております。この団体は、文鮮明という韓国の方が始めた、キリスト教の異端です。彼らはニセ物のキリスト教ですから、信徒を隠します。隠さないと本物が来て、戻されてしまうからですね。アメリカにも、日本の親元から離されて、アメリカ中をあっちへ行ったり、こっちへ行ったりして、イミグレーションを、あるいは親の追求から逃れている哀れな若者が随分いることと思います。もし彼らが本物なら、逃れる必要はないのですが、ニセ物ですから、逃れ、隠れるのですね。本物のキリスト教は、聖書という土俵の上なら逃れたり隠れたりしません。

  私たちの知り合いに、この統一教会問題のエキスパートの方がおりますが、その方によれば、彼らの教理の間違いは、案外彼らが拠り所としている聖書個所に近いところに見つかるそうです。それで、そういう教理から崩していくのがいいそうです。ということは、私たち自身が、本物をしっかりと知ることが大切です。

  真贋を見分けるコツは、「真」をしっかり観察することだと、何かで読んだことがあります。ダイヤのような宝石、ローレックスのような貴金属、ピカソの絵、何でも本物の美しさをしっかり頭の中に刻み込むことです。しかしそういうものの真贋の判別より大切なことは、真の神を知ることです。

  こちらより17時間先を行っている日本ではもう初詣が始まっています。約70%の日本人が、このお正月の期間中に、どこかしこのお宮さんにお参りするそうです。これを日本のいわゆる博識ある人々は、日本人の寛容さ、幅広さと誇ります。クリスチャンのように、まことの神以外には膝を屈めない人たちを、「幅の狭い人たち」と笑います。聖書には、「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた(伝道3:11)」 とあるように、神の形どって造られた人間は、今はまことの神からは離れてしまって、本物が見えないのですが、たとえ目には見えないとしても、超自然的なものにあこがれる性質を持っているのです。初詣に行くと、幾つかの願い事をして、拍手を打ちます。端から見ると「そんなバカな」と思いつつも、どこかで「神さま、お願い」という思いを持ちます。

  何故人々は、お宮さんに行って拝むのでしょうか? そこには、石や、泥や、金属や、木や、神で作った神々しかないはずです。そして彼らは、それらの神々が、願いに答えてくれるとは思っていないでしょう。しかし彼らはそれらに拝みます。これはその背後には、本物があるという一つのしるしでしょう。

  お金も偶像に成り易いですね。上田敏氏の名訳で知られる、カール・ブッセの「山のあなた」と言う詩があります。あれは私の思いでは、本当に切ない感じがします。 
      山のあなたの空遠く、「幸」住むと人のいふ。
      ああ、われひとと尋めゆきて、涙さしぐみ、かへりきぬ。
      山のあなたになほ遠く、「幸」住むと人のいふ。

  お金は、必要なものです。しかしあなたを幸せにするのは、お金ではありません。「山のなたたの空遠く」と、お金儲けが幸せと思って、そのために一生懸命になっていて、身の破滅を招いた人が、今年もいました。「幸い」を求めるのは結構ですが、その幸いは、あんまりあっちこっちキョロキョロ捜さずとも、案外近く、足元にあるのです。統一教会の人たちの教理的誤りは、案外彼らが頼みとしている聖句の近くから真理が見つかるものです。これまで「忙しい、バカらしい」と目にもかけなかったキリスト教会へ行ってごらんなさい。あるいは聖書を読んでごらんなさい。偶像は、人々を騙します。そうして、決して真実に目を向けさせないようにするのです。

さて、それでは一体どなたが真の神かということですが、第二に覚えていただきたいことは、イエス様が神であるということです。テキストは、「それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」とあります。

  学者によっては、この「この方」は、イエス・キリストを指していないと言う人もおりますが、日本語でもギリシャ語原文でも、このコンテキストでは、イエス・キリストを指しているに決まっています。そしてここでは、イエス・キリストが、「まことの神」だと言っているのです。そして何より、この書簡を書いたヨハネは、イエス様の復活の証人であるという点です。

パウロは「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです(ピリピ2:8-11)」と書きました。これはキリストが、父なる神と一体であったことを表しています。

 この書簡もそうですが、ヨハネの特徴は、復活され今も生きておられるイエス様が神であるということを強く打ち出しているということです。世の中には人の証言が信じられない人もいるでしょう。そして実際に信じるに値しない証言もあるでしょう。しかし「イエス様が神である」という証言は、血の証言です。どれだけこの証言をしたために、クリスチャン達が殺され、血を流したことでしょう。そういう血の証言は、現代でもあります。何故、そこまでして証言するのか? それは、それが真実だからです。「あしたに道を聞かば、夕べに死すとも可なり」と言う言葉がありますが、実際これは本当ですね。

最後に、何故この「イエス様が神」ということにこだわるかですが、実は、これが「永遠のいのち」の鍵だからです。テキストは、「この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」と言います。「年間1000万円の給料と、松坂の年間10億円の給料と、どちらがいいか」程度の比較なら、笑って済ませますが、「永遠のいのち」の問題は、命の問題ですし、「持つ」か「なし」かの問題だからです。

テキストは「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています」とあります。この「神によって生まれ」ることは、「イエス様が神」という告白が鍵なのです。これは新生することです。よく、「救われたという感じがしない」という人がおりますが、感じは信仰ではなく、聖書の言葉を信じて告白することが信仰です。告白し続けていると、ある人には、聖霊の特別なタッチがあって、本当に神が共にいてくださるという感情の高まりを覚えるでしょう。しかし、仮にそういう高まりがなくても、「イエス様が神」と告白し続けているなら、その信仰はあるのです。

「信じる」ことは、見たり、確かめたり、することとは違って、見えないもの、触れないもの、その「信じる」という行為の対象にしています。その根拠は、証人であるヨハネが、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、・・このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます(I ヨハネ1:1-2)」という、聖書としての証言です。

 実際、毎朝「信じたい」と言う感情があろうとなかろうと、毎朝「イエス様、あなたは神さまです。私は罪人でしたが、あなたは私の罪のみがわりになって死んでくださいました。そして復活して神であることを明らかにしてくださいました。あなたは、私がもう二度と罪を犯すことのないように、守ってくださると信じます。どうぞ私に永遠の命を与えてくださいますように。感謝して、イエス様のお名前で祈ります。アーメン」と祈って、毎日を始めてごらんなさい、何がおこるか?

イエス様を神と告白しながら、罪を犯すことは出来なくなるものです。あなたの生活は、どんどん良い方向、正しい方向に変わっていくでしょう。

三浦綾子さんの本に、「騙されたと思って、教会に一年通ってごらんなさい。イエス様がわかります」と書いてあったことを思い出します。「イエス様は神」の信仰告白は、その後の生涯、さらにはあなたの永遠のいのちを貫く大切な告白です。世は邪悪な霊で満ちています。こういうとき、惑わされることなく、「イエス様は神」の信仰をしっかり持って、主が持っておられル永遠の命を、私たちも受け継ぐものになりましょう。

祈ります。