2007年1月14日
「魅力的な婦人」創世記12:10−15、ヘブル11:6,11、マタイ17:20
12:10
さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。
12:11
彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。
12:12
エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。
12:13
どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」
12:14
アブラムがエジプトにはいって行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。
創世記20:1-2
20:1
アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住みついた。ゲラルに滞在中、
20:2
アブラハムは、自分の妻サラのことを、「これは私の妹です。」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。
ヘブル 11:6
11:6
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
ヘブル11:11
11:11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
マタイ17:20
17:20 からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。
日本人の教会というのは、伝統的に婦人が多いのを特徴としています。今朝は信仰者として、どういう婦人が魅力的かということに、アウラハムの妻サラに関するエピソードからお話しいたします。今朝は何箇所か、聖書をひらきます。どうぞまた自分でも、その個所を開いて読んでみてください。
実は、説教題を『魅力的な婦人』と書いたら、説教の内容まではまだ知らなかった妻が、「あら、教会は婦人だけが来るところじゃないから、男性にもあてはまるタイトルがいいと思うわ」と申しました。けれども、本当の「婦人の魅力」ということは、男性の人生にもおおいに関係してきます。間違った魅力に捕らわれた、たとえばサムソンのような人は、本当に悲惨でありました。ですから、そのままのタイトルでまいります。
結局のところ、本当の意味で魅力的な婦人というのは、極めて単純です。それは信仰があるかどうかであります。「信仰」ということでは、これまでの歴史的な人たちを取り上げている点で際立っているのは、あのヘブル書11章です。私は繰り返しここを紹介してきましたが、そこには、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません(6節)」とあります。信仰というのはあるかないかがポイントです。
ただそのサラの場合は、誤解されやすいのですが、魅力的であったのは、実は信仰だけではなかったようです。ですからちょっと困惑することもあると思うのですね。ただサラの信仰を考える時には、あなたもまた十分に魅力的な人になれるということが分かると思います。
実はこの新年からまた聖書を最初から読み始めまして、創世記を読んでいてまた考え、妻と話したのですね。
「しかしアブラハムと言う人は、『聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう』なんて言ってるけど、まったくオノロケだよね。この時彼らは幾つだと思う?」
「彼らがカラン出てきた時、彼は75歳だから、サラはそれより10歳下だから、少なくとも65歳だわ」
「だろう? 自分だっていい加減、いいおじいさんなのに、自分の妻を、ぬけぬけと「見目麗しい女」だなんて、よく言うよねェ」
「あら、65歳だって見目麗しい人はいるわよ。私、今57歳だけど、65歳でもまだ見目麗しいと思うわ。あなただってそう思うでしょう?」
「ウーン。まあ、それはそうだけどけどさァー」・・・・これは私たち夫婦の朝食の時の会話です。
ただ言えることは、サラという人は、そんな歳でも、エジプトでは、恐らく広範な人たちから、「見目麗しい」と思われた人だったのでしょう。
さらに創世記20:1-2は、「アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住みついた。ゲラルに滞在中、アブラハムは、自分の妻サラのことを、「これは私の妹です。」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた」とあります。この場合でも、元はと言えば、サラがいわゆる人間的に魅力的だった、つまり見目麗しかったと理解するべきでしょう。
この時期と言うのは、サラが身ごもる頃ですから、90歳近いのです。若い皆さんは、「そんなお年寄りでも、まだ魅力的なのですか・・・」と思うかもしれませんが、おそらくサラは特別きれいだったのでしょう。
もっとも、若い盛りの人たち、つまりグラビヤ・モデルになれるような人たちばかりが魅力的だと考えるのは間違いです。箴言30章には、「私にとって不思議なことが三つある。いや、四つあって、私はそれを知らない。天にあるわしの道、岩の上にある蛇の道、海の真中にある舟の道、おとめへの男の道(18節)」とあります。ここには、「若い乙女に向かう、男の道」という風には、特に年齢のことは特定してはないのです。この道は、年齢には関係ないのですね。その年齢には、その年齢で、魅力的だと思わせる人がいるのですね。
いつかも老人ホームで、三角関係で横恋慕された老人が、この美人(?)の老女が原因と、その老女を殺してしまったという事件があったように記憶しています。ですから、この道は分からないものなのですね。とは言え、やはりどんな美人も、歳を重ねれば、一般的には魅力は落ちて行きます。ただ、女性の魅力というのは、果たして容姿が美しいということ、つまりその美貌なのでしょうか?
サラは歳をとっていても、そんな風に男の気を引くことが出来たから魅力的だったのでしょうか?また、女性の魅力というのは、果たしてその美貌なのでしょうか?
そこで知ってもらいたいのは、信仰の魅力ということです。ヘブル書 のテキストは、「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです」と言います。なぜここが私たちにとって励ましかと申しますと、このサラと言う人は、(アブラハムについても云えますが)そう特別な人ではなく、当たり前の人のようにみえるからです。と申しますのも、ヘブル書には「彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです」とありますが、彼女は、初めから一貫して約束してくださった方を真実な方と思っていたかということです。実は、そうではなかったことを、私たちは創世記から知ります。すなわち創世記18章で、サラは主を通して赤ちゃんが生まれると言われたとき、「何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで」と言って笑ったのです。これは普通は理解できます。何しろ80歳代も後半ですし、「サラには普通の女にあることがすでに止まっていた(11節)」というのは、女性の生理のことでしょう。こういう状態なら、大体の女性は「子供が抱けるだなんて、そんなバカな」と思うでしょう。つまりサラは極めて普通の婦人だったと言えましょう。しかしその疑いを主から指摘されると、彼女は「『私は笑いませんでした』と言って打ち消した。恐ろしかったのである」とあります。
ヘブル書では、サラについても「信仰によって」とありますが、特別な人というより極めて普通の人です。よくある普通の信仰者で、主の言葉に対しても、この世的に考えては、一度は疑ったのです。これは皆さん方の中にも見られると思いますが、いかがでしょう?ただサラの場合、主から示されると、ただちに主の言われた方向に軌道修正するところが素晴らしいのですね。それは、主を「恐れる」思いがあったからでしょう。
今年は新年から、恐ろしい事件が続いています。兄が妹を切り刻んだかと思えば、今度は妻が夫を切り刻んで捨てました。どうしてそんな恐ろしいことが出来るのでしょう?現在ほど教育の荒廃が叫ばれている時はないでしょう。「主を恐れることは知識の初めである(箴言1:7)」ということは、教育の根本です。信仰があるかないかは、この主を恐れる心があるかないかでありあります。やっぱり私たちは誰もが生身の罪人です。信仰者だといっても、主を疑うことも、主がついていてくださるのにもかかわらず気弱になることもあるでしょう。ただ、いつも疑いっぱなし、いつも主に信頼できず、気弱でありっぱなし、あるいはそのうちにすっかり主のことなど忘れてしまうなどと言うことではいただけません。信仰者には、聖霊様の働きがわかるはずです。「子よ、そんなことはしてはいけないよ」とか、「子よ、それはすべきだよ。だって私からのラブレター聖書に、私が書いておいただろう」という聖霊様の声が聞こえるでしょう。疑うことや、不安に思うことは仕方がありませんが、ずっとそれでは信仰の人にはなれません。
そういうサラでしたが、新約のヘブル書には「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えた」とあるのです。だから、サラは信仰の人なのです。
そこでその信仰のことをもうちょっと考えて見ましょう。聖書は、「からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません」と言っています。ここで注目したいのは、「あったら」であります。
実は二週ほど前のE-Mail Blessings に、主よりお金に頼る愚かさについて書き、「それではどうやったら、『金持ち』ということで糾弾されることから逃れられるでしょうか? 簡単です。主への献金を忠実にすればよいのです」と書いたら、ある若い奥さまからメールを貰いました、「あぁ、この毎月の献金を貯金に回せたら、マイホームへの夢が現実に近くなるのに。。。などと思ってしまいました。夫にも告白しました。。。でも、誘惑に負けないように献金は毎月お給料が支払われた段階で『初穂』をすぐに振り込み献金するようにしているのです」と。「振り込み献金」だなんて、私たちが日本にいた時には、聞いたことがない献金の方法があるようです。このメールは、太平洋を隔てた日本からですが、私は何とかこの若いご夫妻が、マイホームを持てるようにと祈りました。一緒に家屋の写真も送ってくださいましたが、それは素敵なご家族の写真でした。奥さまも写真で見てもそれは魅力的な方ですが、やはりその魅力は主により頼むという信仰にあります。この若い奥さまも、やはり「教会に献金するのを貯金に回せたら・・・」という思いがくることがあると告白しています。けれども、また「でもやっぱり初穂を主に献げよう」と、主に帰っています。これが主に対する信仰のある人の態度です。
私たちの教会の大元の開拓者は、故マリー・ジュルゲンセンという、かつての日本の宣教師です。この方の父上カール F. ジュルゲンセンが最初の日本のアッセンブリーの宣教師ですが、この方はドイツ系の方で本当は祖国ドイツへ行きたかったようです。けれども、「日本へ行け」という召しを受けたので、オハイオでの事業をたたんで、ロスアンゼルスまでやってきました。それでも「主よ、私はもう日本語など勉強できません。何とかドイツへ行かせてください」と祈っていて、出発を延ばしていました。ところが、聖霊さまは、「私は口下手のモーセに、アロンを与えたではないか!」と迫られました。それで重い腰を上げて、日本に来たのです。果たして日本での宣教は大変でした。説教の通訳は東大の学生などを使ったようですが、この学生達は信仰がない人たちで、約束の時間にこなかったり、休んだりして集会がもてないこともあったようです。マリーは、両親と妹のアグネスと共に、日本に渡った時は12歳でした。それから二年後、彼女が14歳の時には、もう父上の説教を通訳するようになったのです。カール F.ジュルゲンセンにとって、アロンは、娘のマリーだったのです。
カール F.ジュルゲンセンもまた、主に再考を願いましたし、しり込みしたことも考えられます。しかし、最終的には主を恐れる信仰の人でありました。
信仰は「強い」とか「弱い」とか、「大きい」とか「小さい」という表現も可能かもしれませんが、根本は「あるか」「ないか」です。なければ主に喜ばれることはない、つまり魅力はないのですね。
見てきたように、サラが特別な人と言う」印象はありません。アブラアハムでもそうです。神の約束に対して不安を覚えたこともありました。サラについては、自分に危害が及ぶのを恐れて、二度も「妹だ」というピンクのウソを言いました。しかし、彼はやはり、「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」とあるように、主を恐れ、主のみ声に従う人だったのです。これが信仰者の姿です。
「信仰がある」という特徴で、魅力を出すべきです。いくら厚化粧をしても、美貌と言う点では、若い頃の魅力は決して取り戻せません。しかし1コリント13:13には「いつまでも残るものは信仰」とあります。ですから信仰という魅力は絶対の魅力なのです。
婦人達よ、信仰をもちなさい。そしてその信仰と言う魅力で自分を飾りなさい。男性達よ、信仰のある女性の魅力を認めなさい。肉的魅力にひかれて、そういう人と一緒になって、悲劇を招いた例は、聖書に枚挙に暇がありません。
今年も繰り返します、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」
祈ります。