2007年2月11日
分裂(単一)王国時代シリーズ 第四回
「信仰は単純さが肝心」 2列王記5:1−14
5:1 アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士ではあったが、ツァラアトに冒されていた。
5:2 アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕えて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、
5:3 その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。」
5:4 それで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。
5:5 アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。
5:6 彼はイスラエルの王あての次のような手紙を持って行った。「さて、この手紙があなたに届きましたら、実は家臣ナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のツァラアトを直してくださいますように。」
5:7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを直せと言う。しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」
5:8 神の人エリシャは、イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
5:9 こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。
5:10 エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」
5:11 しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。
5:12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。
5:13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」
5:14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。
私達は、分裂王国時代の話で、北イスラエルを中心として二回、南ユダを中心として一回、メッセージを聞きました。今週は、この時代の外国の人、テキストの最初に、「アラムの王の将軍ナアマン」と言う人が出てきますが、この人を中心にして、メッセージをうかがいたいと思います。
新改訳では、アラムの将軍となっていますが、口語訳では、スリヤ(Syria)となっています。「スリヤ」と「アラム」は同じ国のことで、ヘブル(Hebrew)語原文はアラムになっています。スリヤというのは、七十人訳(Septuagint)からの音訳です。現在のシリヤのあたりだと考えていいでしょうし、その首都ダマスカス(Damascus)を中心としていた国だと考えてよいでしょう。
当時この国は、しばしば南に押し寄せて、北イスラエルを苦しめておりました。当時とは、つまり年代でいうなら、BC9世紀頃です。
このアラムのアナアマン将軍は、重い皮膚病だったのです。近年は、日本語において、「らい病」という言い方をすることは、不快用語ということで、避けるようにしているということですから、アメリカにお住まいの皆さんも、言葉使いには気をつけた方がよいと思います。以前は「らい病」という語があてられていたこの病気について、最近の日本語訳聖書は、「重い皮膚病」とか、原語の「ツァラアト」とそのまま使っています。英語は、私の知る限りでは依然、Leprosy が使われていますが、ヘブル語の本来の意味は、今日で言うLeprosy とか Leper、つまり ハンセン病に限らないようです。私は、以前に「癩病」といういい方は、「キャンサー」に対する「癌」と同じで、差別用語ではないという持論を持っていました。このスタンスは今でも変わりませんが、しかし「癩病」は多くの場合、差別・不快用語のようですから、ハンセン病(煩染病あるいは煩洗病という当て字も考えました。)にしたら、どうかとも思っていました。しかし、その後、さらに色々考えまして、かりに差別用語でないとしても、この病に苦しむ人には不快用語なのでしょうから、へブル語原語も、必ずしもハンセン病に限らないということもありまして、やはり新改訳で使われている原語の「ツァラアト」とか、新共同訳の「重い皮膚病」の方が適切かと思っています。
さて、ある時のスリヤのイスラエル遠征で、シリヤは色々なものを略奪しましたが、その中に、イスラエルの若い娘がおりました。そしてテキストによれば、この娘は、「ナアマンの妻に仕えていた」のです。ナアマン将軍は苦しんでおりましたので、そのイスラエルの娘は、「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのらい病を直してくださるでしょうに」と告げたのです。ナアマンは、スリヤの王様に(この時の王はベン・ハダデ(Ben-Hadad)、それを告げると、王様は、「行ってきなさい」と、贈り物まで持たせて、送り出してくれました。
ところが、イスラエルの王様ヨラム(Joram)は、この申し出にカンカンになりました。治せなかったら、外交問題に発展すると考えたのでしょう。
その時預言者エリシャ(Elisha)は、「彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう」と言い、ナアマンが来ると、彼に「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります」と告げたのです。
すると今度は、ナアマンが怒りました、「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに」と。実は、私も行ったのですが、ヨルダン川に身を浸すと申しましても、あの川は、正直、そうきれいな川と言う感じはしませんでした。シリヤのアマナとパルパルと言う川、おそらく今日のシリヤを流れる、それぞれバラダ川と、エルアワジ川だと思われます。私がミズーリの神学校にいた時、そこのプロフェッサーの一人が、そこにいった経験ががありまして、彼が話していました、「確かに、ヨルダン川と比べるなら、それらの川の方が水がきれいだ」と。
その時、ナアマンの僕が、「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか」と進言すると、彼はそれに従って、ヨルダン川に七度身を浸したのです。すると重い皮膚病が癒されたと言うのです。
さて以上は、聖書に書いてあることをもう一度かいつまんでお話しただけですが、今朝は「癒し」についてお話します。癒しの教理もそうですが、どんな教理も聖書の一箇所だけで立てることは妥当ではありません。
ここから知られることは、1.神は重い皮膚病(おそらくハンセン病のような重い病気)であったとしても癒される。 2.神は、決してイスラエル民族だけの神ではない。何故ならナアマンという異邦人に対しても、癒しをなされるから。3.神が癒しをなさるためには、単純に神の言葉に従う信仰が必要である。当時、神は預言者を通して語られておりましたから、この時、ナアマンがエリシャの言葉に従ったのは正解でした。
ただ新約の現代、「癒し」という時、イエス様の教えが基礎になります。そしてイエス様が、主の祈りで「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように(マタイ6:10)」と祈るようにと教えられたことをも、人々は思い起こすべきです。
今日重い皮膚病の人が、ヨルダン川へ行って、「七度身を浸すと、癒されるか?」 と問われたら、私はおそらくかなり否定的に「わかりません」と言うでしょう。同様に、「有名な癒しの伝道者に祈ってもらったら必ず癒されるか?」という問いも同じです。「主のみこころならば癒されます」と答えるでしょう。
実は、今週初め、サクラメントのもう一つの集会に行きましたら、そこにいた姉が、ベニー・ヒン先生の集会の様子を話していました。「皆さん、『頭痛が癒されました』、『腰痛が癒されました』と証詞している中で、癒されなかった人は、寂しそうにショボンとして帰って行きます。お気の毒ですよ」と言うのです。この方の、「ショボン」という表現が、当事者には気の毒ですが非常に、ユーモラスでした。
私の気になることは、ああいう癒しの集会へ行くと、そして例えばヒン先生に祈ってもらうと、だれもかれもが必ず癒されると思っているのではないかことです。
私はある知られた癒しの伝道者に聞いたのですが、癒しというのは、癒されたことは評判になるが、癒されなかったことは評判にならない、というのです。みんながみんな癒されるわけがない、そんなことは分かりきったことです。そんなことになったら、死ぬ人はいなくなって、人口は決して減らないでしょう。癒しの伝道者が祈って、人々が癒されるのは、それが主のみ心だからです。厳しい話ですが、若くても御心なら死ぬ人がいます。御心でない場合は、主イエス様ですら、全部が全部、癒されなかったのです(マルコ6:5)。ですから裏を返せば、祈ってもらっても癒されないこともあるということです。
また、歳を取った人は、癒されることを願うより、安らかな召天を願うべきであるとは、誰も言えないと思います。100歳の人でも、癒されることが主のみ心の場合もあるのです。そしてそのように祈ることは、決しておかしいことではないでしょう。御心がなることは素晴らしいことです。
「ナーンダ、それじゃ結局、癒されるかどうか分からないんじゃないか。そんなら、祈ったって仕方がない」と言うことは出来ないと思います。何故かなら、病人のために祈ることは、御心にかなっているに決まっているからです。ここが今朝の説教のタイトルの「単純な信仰」が必要なところなのであります。
主は誰であっても、単純に遜って信仰者に答えてくださいますし、そういう信仰を喜ばれます。ですから、遜って単純に従いましょう。
第一に、立派な信仰者、主に愛される信仰者というのは、出生とか、国籍とか、人種を問いません。だれでも、主に愛される、立派な信仰者になれるということです。
ナアマンは、「アラムの王の将軍」です。外国人であるばかりか、神の民、イスラエルに対して対抗していた人たちです。しかし、聖書によれば、「主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである」と、アラムが勝つようにされたのも、神であることを知ります。
考えてみれば、イエス様が地上の生涯を送られている間に、イエス様を取り巻く人たちの中にも、またイエス様が上げられてからは、使徒たちを取り巻く人たちの中にも、むしろ立派な信仰者は、外国人や、神の民イスラエルの中では、貧しい人、汚れた人が多かったように思います。
カペナウムで、しもべが癒された時(マタイ8章)も、それはローマの百人隊長でした。使徒たちも、いわゆるパウロのようなエリートは例外で、「無学な普通の人(使徒4:13)」が多かったですし、主からその信仰を誉められた人の中には、売春婦もおりました(ルカ7章)。
私は、皆さんのバックグランドをよくは知りませんが、あなたがどんな生い立ちであれ、どういう過去を持っていようとも、主に愛される点においては、まったく差別はありません。癒されない場合、それは主が愛しておられなかったという意味では決してありません。
そこで二番目に覚えていただきたいのは、主に愛される信仰とは、「謙遜で、単純に」ということです。テキストは、「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのらい病を直してくださるでしょうに」と、イスラエルから連れてきた娘を通して聞いた言葉に、ナアマンが従ったということです。
人は何かの格式や権威には、従い易いです。目上の人、年上の人、地位が上の日地には、従う傾向があるでしょう。ところが、言ってみれば奴隷同然の外国の娘の言葉に従うということは、かなり遜りを求められます。ナアマンという人は、「その主君に重んじられ、尊敬されていた」とありますから、主を知らない人であっても、世間では人格者だったようです。しかし、人格者だから病気にかからないわけではありませんし、人格者が必ず癒されるというわけでもありません。
ナアマンは、エリシャに「七たびあなたの身を洗いなさい」と言われた時、憤慨しましたが、ナアマンが遜っているのは、この時も、彼のしもべの諭しに従っているのです。目下の者であっても、それが神のみこころに沿った言葉なら、遜って聞きしたがう謙遜さをもちたいものです。
今日牧師の諭しは、聖書に書いてある限り、それは神の声と心得て、従いましょう。私は牧師で、癒しの祈りをする時には、ヤコブ書に書いてあるように、オリーブ油を塗って祈ります。以前、ある教派の人たちから、「何ですかそれは?おまじないですか」とからかわれました。私は、からかわれても、バカにされても、単純にそうします。そう聖書に書いてあるからです。
「イシハラ先生の祈りでは癒されない」と言われても、私は信じて、癒しのために祈ります。信じて従った結果、願うような現象が起こることを期待しますが、仮に起こらないとしても、信じ続けて祈る信仰が大切です。
最後に知って頂きたいことは、「ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった」とあるように、信仰の結果、癒しが起こるということです。
この場合は、ナアマンの信仰ですが、時として、周りにいる人たちの信仰による時もあります。マルコ2章では、「イエスは彼ら(中風の人を連れてきた人たち)の信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました』と言われた」のです。
繰り返しますが、癒しが行われるのは、神の御心によるのです。癒しが起こったら感謝すればいいのです。仮に願ったようないやしが起こらなかったとしても、腹を立てたりしてはいけません。それは神はあなたを愛しておられないのではありません。主はパウロに「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである(2コリント12:9)」と言われています。
「癒される」と信仰をもって、祈り続ける信仰は、主が賞賛してくださるでしょうし、実際に主にある癒しを期待できるのも、そういう遜った単純な信仰が見られるときであります。
あなたのバックグラウンドがどうであれ、主のことば、今日では聖書の言葉に対して、遜って、単純に信じ続ける信仰を身につけて下さるようにお勧めします。
祈りましょう。