2007年2月25日

分裂(単一)王国時代シリーズ 第六回
「ヒゼキヤ王と日時計」 2列王記20:1−11


20:1 そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」

20:2 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。

20:3 「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行なってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。

20:4 イザヤがまだ中庭を出ないうちに、次のような主のことばが彼にあった。

20:5 「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられる。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。三日目には、あなたは主の宮に上る。

20:6 わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、わたしのために、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。』」

20:7 イザヤが、「干しいちじくをひとかたまり、持って来なさい。」と命じたので、人々はそれを持って来て、腫物に当てた。すると、彼は直った。

20:8 ヒゼキヤはイザヤに言った。「主が私をいやしてくださり、私が三日目に主の宮に上れるしるしは何ですか。」

20:9 イザヤは言った。「これがあなたへの主からのしるしです。主は約束されたことを成就されます。影が十度進むか、十度戻るかです。」

20:10 ヒゼキヤは答えた。「影が十度伸びるのは容易なことです。むしろ、影が十度あとに戻るようにしてください。」

20:11 預言者イザヤが主に祈ると、主はアハズの日時計におりた日時計の影を十度あとに戻された。

      先週の説教では、アッスリヤによるサマリヤ陥落で、北イスラエルが滅んだことをお伝えしました。これがBC722ですから、それ以降は、南ユダの単一王国になるわけであります。ユダ王国の中で、善王という意味で注目すべき王様の一人は、ヒゼキヤです。この人の治世は、大体BC715から663年頃だと思います。彼は宗教改革を指導したことで有名です。2列王18:22 で、ユダを取り囲んだ、アッスリヤのラブ・シャケとという将軍は、「その主とは、ヒゼキヤが高き所と祭壇を取り除いておいて、ユダとエルサレムに向かい『エルサレムにあるこの祭壇の前で拝め。』と言ったそういう主ではないか」と申しました。つまり、外国の人々にも、ユダヤ人の礼拝の対象が「主」であるということが分かるほど、強烈な印象を与えていたのでしょう。因みになぜ内陸の国アッシリヤが、地中海に面したイスラエルを攻めたのかは、よほど海のお魚に飢えていたのかもしれません。何故ならその国の将軍は、ラブ・シャケと言いますから。もっともこれは冗談です。 

  ともあれヒゼキヤのやったような徹底した宗教改革と申しますか、霊的覚醒が、私たちの住むアメリカにも必要かと思います。世界中からありとあらゆる宗教、偶像があふれるここアーバン(都市部)カリフォルニアは、もはや私たちが日本にいたとき、イメージした「アメリカはキリスト教国」のイメージは、まったくありません。アメリカの建国の精神、ワシントンでも、ジェファーソンでも、特に16代のリンカーンなどは、自分の演説にどれくらい、「神は」「主の」「恵により」などという言葉を、まったく自然に使っていることでしょう。この国は、アイデンティティーを失いつつある感じがします。

 2歴代誌301:2によれば、「さて、ヒゼキヤは全イスラエルとユダに使いを遣わし、またエフライムとマナセに手紙を書いて、エルサレムにある主の宮に来て、イスラエルの神、主に過越のいけにえをささげるよう呼びかけた。王とそのつかさたちとエルサレムの全集団は、第二の月に過越のいけにえをささげようと決議した」とあります。つまりあれほど固く守るように言われていた過越の祭も、この当時は行われていなかった形跡があります。そしてこれへの召集がなされた時、アッシリヤに滅ぼされた北イスラエルの中でも、残っていたいい信仰者が、南に加わったのです。2 歴代30:11には、「ただ、アシェル、マナセおよびゼブルンのある人々はへりくだって、エルサレムに上って来た」とあります。ここを読んで、私は嬉しかったです。何故なら、私の孫アシェルの名が、その中に入っていたからです。

  日本の教会で私たちは、「礼拝厳守」などという風に教えられたものでしたが、ヒゼキヤの改革は、まさにエルサレムの本山礼拝と申しますか、主への礼拝の本来の型を取り戻すようなものでありました。

  ヒゼキヤを王とする、南ユダがこういう改革が出来た背景には、やはり南ユダという国が、小さいということも原因したでしょう。何しろユダ族とベニヤミン族だけですから、比較的まとまりやすかったのでしょう。さらに前にも申しましたが、ダビデ契約(2サムエル7章)、つまりユダの家、ダビデの家系から救主が生まれるという契約ですね、これが彼らにはありました。兄弟分の北イスラエルが滅亡しても、「我々は残される。どんな境遇に遭遇しても残される。それがダビデ契約なのだから」という信仰を、もう一度思いこさせたに違いありません。

   今日は恵の時代ですから、当時のような家系によらないで、信仰によって「私は主の家系に加えられた」という確信をもつことが出来るのです。そういう信仰を持つなら、おのずと、「たとえ今はどうであれ、主は必ず私を、さらに私の家族を祝福される」という確信に導かれるでしょう。

  さてヒゼキヤを取り巻くそういう背景を考えながら、今朝は有名な日時計のお話から、主は約束されたことを成就されるということを学んで主をあがめましょう。

  テキストにはイザヤが出てきますが、イザヤ書1:1に、「アモツの子イザヤの幻。これは彼が、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである」とありますので、イザヤの預言者としての後半と、ヒザキヤが王だった時代とが重なっているのです。そのイザヤが、病気になったヒゼキヤに、「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」と言います。それにしても、預言者ははっきりものを言いますね。

  今日も、いわゆる預言者と呼ばれる人たちが盛んにやっていますが、ああいう人たちは、ここの聖書に出てくるような意味での預言者であるはずがありません。新約時代の預言者は聖書を解き明かすという意味での預言者ということです。ですから、聖書から逸脱した解き明かしの預言者は、ニセ預言者ですから気をつけましょう。また、信徒は聖書を通して、神の預言の言葉を、直接頂くことが出来ます。オハイオで日本人の伝道者が必要だった時、あるアメリカの方が私に電話をかけてきて、「主は、パスター・エイブにオハイオへ行けと言われました」などと預言しました。本当に主がそう言われたのでしたら、私自身にそういう、コンヴィクションがあったはずです。この手の今日の、「無責任預言者」には気をつけましょう。

  第一に覚えていただきたいのは、「主」というお方を、もっと意識すべきだということであります。おそらく当時の人々の間では、主に対する関心が薄かったのでしょう。ヒゼキヤの宗教改革は、主への礼拝を重んじました。

  今日でも、信仰がない人や、薄い人からは、「主」だの「イエスさま」だのという言葉が、日常生活からはほとんどでてきません。英語で「ジーザス・クライスト」という場合、多くの場合はまず殆ど信仰とは関係ありません。箴言1:7では「主を恐れることは知識の初めである」とありますから、子供のころから、主を意識させることが大切ですね。日本語では、「かみさま」と呼ぶ場合、「み」にアクセントをつけると値打ちがない八百万の神という感じがしませんか? 「か」にアクセントをつけると、キリスト教の「神さま」という感じがします。しかし何と言っても、「エスさま」という呼び方を教えるべきです。何故なら、「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです(使徒4:12)」とあるからです。

  ヒゼキヤが、それまでなおざりにされていた「主」への礼拝を回復したことは大きな改革でした。

   二番目に、主の約束を覚えよということです。テキストではこの時、ヒゼキヤは、イザヤに「死ぬ」と言われたので、「大声で泣いた」のです。これは、ただ個人的に「死ぬ」と言われたことに対する悲しみではありません。この時に自分が死ぬのは、国と人々のためにならないだろうという客観的な思いからでしょう。そういう主に対する真摯な思いに対して、主がただちにイザヤを通して「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。三日目には、あなたは主の宮に上る。わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、わたしのために、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る」と言われたのです。

     「死ぬ」と宣告された者が、「治る」という約束を受けたのです。例えば、お医者さんから、「あと長くて3ヶ月」とでも言われると、これはほぼその通りになるでしょう。しかしそれでも、時として「いや、治る」といわれて、あるいはその当事者が、そういう風に聖霊様からのお告げを受けて、癒されることもあるのです。しかし、こういうことはまったく常識からはずれています。神の約束というものは、人間の常識を覆します。例えば、皆さん御存知のヨハネ3:16です。そこには、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」とあります。まず世の中の、いわゆる科学を信じている人々は、「永遠のいのち」などという概念はおそらく分かりません。「死んだらおしまい」と思っている人々には、「永遠のいのち」などと言うことは御伽噺のようです。しかし、「信じる者には永遠の命」が約束です。マタイ11:28には、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」とあります。イエス様の言葉ですが、今日イエス様など見えません。すると、マタイ18:20では「二人でも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」と言われているので、クリスチャン達が集まっているところに行けば、イエス様のところに来たことになります。それらはみな聖書に書いてある約束です。神の約束と言うのは、肉の人間には、とても信じがたいことです。

      三番目に覚えていただきたいのは、信じがたい約束であっても、神の約束は成就するということです。さっき献金しました。小切手で献金した人 も何人かいます。あの小切手は、まだお金ではありませんが、あれは必ずキャッシュできると、私どもは殆ど疑っておりません。それはサインされた小切手は、「サインをしたからには支払います」と約束したのですし、受け取った側は、それがキャッシュできると考えるのは、ごく常識だからです。

     ところが神の約束は、信じがたいことでも、そのようになるのです。それが「死ぬ」と言われた人が、十五年長生きし、日時計の陰が常識に逆らって十度戻るのです。

     日時計を現す「アアロース」という語は、新改訳の下欄の注にもあるように、「度」とか「階段」の意味です。日が昇り、そして沈むと、影は伸びたり縮んだりします。またその位置も、変わります。こうして昔の人たちは時間を見たのでしょう。これが朝だったのか、午後だったのかは分かりませんが、要するに、本来は伸びるはずの所が、縮むように、十度進むはずのところが、十度戻るようにするということです。どうやって説明がつくのでしょうか?神の約束は、人間の常識では計れないのですね。しかし、必ず成就するのです。

     あの当時、人々は、余りにも人間的な、策略に頼みすぎて、超自然の、主に頼むことを忘れておりました。その信仰をヒゼキヤは、ユダ王国の民に、思い出させる指導をしたのです。その意味で、この王様は偉大な王と言えましょう。

     イエス様は、ヨハネ11:25-26で「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」と言われました。そうして、自ら死人のうちから復活なさいました。神の約束は、人間の常識から考えたら、到底信じがたいようなことであっても、成就するのです。この時、イエス様はマルタに「あなたはこれを信じますか」と問われました。同じ問いは、あなたにも向けられているのです。それは信仰によってのみ、信じられることでありましょう。しかし、信じるものは幸いです。

  今日でも、まったく人間的考えたら、分からないようなしるしが見せられることもあるかもしれません。しかし、仮にこの日時計のようなしるしが信仰の見られるところに普遍的に見られないとしても、ただ聖書の約束を信じて、人々がそのように変えられていくのを見るのは、まさに奇跡であります。

     あなたも聖書に信頼して信仰を働かせられるように祈ります。そして、人間の考えでは信じがたい神の約束の成就を味わってください。

     祈ります。