2007年3月4日
23:33
「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
23:34
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
23:35
民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
23:36
兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
23:37
「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。
23:38
「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
23:39
十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
23:40
ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41
われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
23:42
そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
23:43
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
以前にも、申し上げましたが、長い時間祈れることは素晴らしいことです。しかしそれには訓練が必要です。木曜に祈祷会をしております。もし導かれるなら是非おいで管さって長く祈れるように訓練しましょう。
いわゆる黙祷ではなく、声に出して祈る場合、何のために祈るかということをキチンとしておかないと、すぐに祈る課題がなくなってしまいます。そして「○○さんを救って下さい」という具合に、個人的な名前を挙げて祈るとか、「XX教会を祝福して下さい。そこで奉仕されるXX先生を守り祝福して下さい」というようになるべく個別に名前を挙げて丁寧に祈るのです。「日本の救われていない人が救われますように」「私達を支援して下さっている方々を祝福して下さい」というような祈りも、悪くはないですが、それでは数分で祈りの課題がなくなってしまいます。私の場合は、カリフォルニアの星教会のために祈り献げて下さっている教会とそこの牧師先生の名前は、全部覚えていますが、わからない方は祈祷ノートを作ってそれに書いておいたらいいですね。
さて今朝は、『主の祈りの姿勢に倣って』と題して御言葉をお取り継ぎいたします。
イエス様は父に信頼し、赤の他人のために、むしろ敵のためにさえ祈られます。そういう祈りの姿勢が、人を神との、また人を人との和解に導くのです。ですから私たちも、イエス様の祈りの姿勢に学ぶべきであります。
イエス様は福音書で『主の祈り』を祈りの手本として、私達に教えておられます。それで、この祈りは今日もクリスチャン達に受け継がれております。けれどもこの『主の祈り』は、様々な領域にまで祈りが広げられております。しかし一言祈るチャンスがあるとしたら、みなさんなら何と言いますか?
先週アカデミー賞の発表がありました。『硫黄島からの手紙』は、残念ながら、賞を逃しました。戦争と言うのは悲惨です。死に行く兵士は、大体は「おかあさん」と叫ぶようです。これは先の戦争の時でもそうだったそうですね。実際に戦場に行ったことのある方から聞きましたが、「天皇陛下バンザイ」と言って死ぬ兵士はまずいなかったようで、むしろ「お母さん」「おっかさん」が多かったそうです。これは最期の時の言葉ですから、一番思っている言葉でありましょう。あなたがこういう状況になったら、何と言い残すのでしょうか?
今朝のテキストは御承知のように、キリストの十字架であります。私は、実はここに、イエス様の祈りの姿勢がよく出ていると信じるのであります。これは主の最期の時の言葉のひとつと言えるでしょう。主が十字架に架かる時「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と言われたこの言葉は「祈り」と受けとってよいでしょう。死なれる時ですから、究極の場面であり、その主の究極の場面での祈りの姿勢から、私達自身の祈りの生活のために、学ぶべきことがあると信じるのであります。
まず第一に知っていただきたいことは、イエス様は、最期まで神を忘れずに信頼して祈られたということです。当たり前といえば当たり前ですが、信仰者と言われる人達の祈りの生活でも、時々この点が徹底しない場合がありますので確認しておきます。
イエス様はローマの兵隊によって十字架にかけられました。想像したででもおぞましい光景です。聖歌400は『君もそこにいたのか』ですが、その2節は「君も聞いていたのか
釘を打ち込む音を」です。本当に「なんだか心が震える」であります。しかしこの時イエス様は、「父よ」と祈られたのです。
主は「父よ」と究極の状況で言われましたが、私達人間が、父なる神を忘れ信頼を失うケースで考えられるのは、究極的な場面で、その厳しさの故に信仰がどこかへ行ってしまって主を忘れてしまう場合です。信仰者と思われていた人でも、厳しい状況になると祈りも信仰も忘れて心配し、その心配が現実になると「神さまはおられなかったわ」とか「主は私を愛しておいでにならないわ」というのです。「心配」というカヴァーが父なる神をおおいかぶせてしまっているみたいです。一応は祈っていることもあっても、上の空という感じで、心が伴わないのですね。
キリスト者でない場合は、本当の神が分からないのですからチグハグになっても致し方ありません。最後の望みだと思って祈っていたのに、自分の願っているようにならなかった場合、「神も仏もあるものか」とか言う人がいます。あるいは自分が死ぬような状況とか、自分の大切にしていたものを失うような状況では、神々や仏などにかまっていられない人がいます。
.....と申せば「そうではない」という方もありましょう。「そういう絶対絶命の時には、人は神に頼る」と。しかし、その場合はたいがい「神さま、仏さま、キリストさま」という、いわゆる苦しい時の神頼みというやつですね。それらの神々は、活けるまことの神ではありません。
何年か前私達が日本へ行った際に、ある心臓疾患のある子供を持つ親に出会いました。私はその子のために祈りましたが、このお父さんは「XX教の人にも、○○教の人にも、△△教の人にも拝んでもらいました」と言っていました。こういう人は、主を知らない人ですから仕方がありませんが、また別の宗教の人が来ると、その人にも祈って貰うでしょう。
ポイントは、どんな場合でも、それが究極の時であっても、決して「父なる神」を忘れず信頼を失わないということです。それは他の神々に頼るべきではないという意味も含んでいます。
旧約聖書にヨブという人が出てきます。一挙に全財産を失い、子供も失いました。自らは病気(聖書には悪性の腫物とおそらくツアラアトのこと)になりました。妻さえも、「神をのろって死になさい」と言いました。しかしヨブは「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか」と言いました。
ですから主に倣う祈りの姿勢は、どんなときでも主を忘れないで信頼する祈りです。
第二に覚えて頂きたい主に倣う祈りの姿勢は、自分が死に臨んでも、なお他人のために執り成すということです。
イエス様は、テキストで「父よ。彼らを」と祈られたのです。ここでイエス様は、自分のためや、何か自分のベネフィットになるために祈っておいでになりません。まったく関係ない他人のために祈っておられるのです。
これから祈る時に、全体の祈る時間のチョットだけを自分のために使い、多くの時間は他人のために祈るようにしたらどうでしょう。執り成しの祈りをするようになると、これは時間がかかります。一時間位では、とても足りません。
ある人達の祈りは、それが祈りであったとしても、多くが自分中心です。「どうぞ私に△△して下さい」「どうぞ私に○○を下さい」「どうぞ私の家族のためにXXをください」といったように。これが世の中の人になると、「家内安全、商売繁盛、無病息災」殆ど全部、自分あるいは、自分の身内中心に祈りますね。これは普段の時でもそうですから、ましてや究極の時には他人のためになどかまっていられません。ましてや自分の知らない人、自分と関係ない人、あるいは自分にひどい仕打ちをした人などの祝福など祈ってはいられないでしょう。
今は、日本でも受験シーズンですが、日本の受験生は受験の前(つまり受験生にとっては必の時)には、神頼みをする人がいますが、その時「私は落ちても、どうぞXXさんは合格させて下さい」とは祈らないでしょう。殆ど自分が合格出来るように祈るでしょう。親は勿論自分のためではないにしても、自分の子供のために祈るのです。「自分」が中心で、決して見ず知らずの「他人(隣人)のためではないのです。
イエス様は、この究極の時に「彼らを」と、全く赤の他人のために祈られたのです。
いかがでしょうか? 聖歌256『祈れものごと』の3節は「祈れおのれのことよりむしろ、人をとりなす身となるまでは」です。
祈りも成長します。信仰を持った当初は、殆ど自分に関する祈りです。けれどもそれから、他人のためにも祈れるようになるのです。もしそうでないなら、そうなるべきです。それも最初は、比較的身近な人達です。自分の家族とか、近隣の人達、自分の出席する教会関係の人達のために祈ります。他のために祈る祈りを執り成しの祈りと言います。執り成しの祈りが出来るようになることは幸いであり成長です。その執り成しでも、自分たちと全く関係のない人達のために祈れるようになると、更に成長です。
海外宣教というのは、その意味で全く正解です。私達の教会の礎のマリー・ジュルゲンセン師のお父さん、カール・ジュルゲンセン師は20世紀の初め、全く縁もゆかりもない日本にやって来て福音を伝えてくれました。こういう態度が大切です。
私達が応援しているメキシコ・エルシャダイ教会の人達について、最初私達は何も知りませんでした。教会すらありませんでした。しかしその地域に住む人達のために祈ったのです。現在教会があります。クリスチャンがいます。あの教会は、カリフォルニアの星教会のブランチ教会ではありません。ブランチ教会なら親教会がコントロールできますから、もしかしたら見返りが期待できます。丁度教団みたいなものです。海外伝道は、大体見返りなしでするものです。主の執り成しはそういうものです。しかし家族や近隣の人達のための執り成しは決して忘れるべきではありません。パウロも、「もしある人が、その親族を、ことに自分の家族をかえりみない場合には、その信仰を捨てたことになるのであって、不信者以上にわるい(1テモテ5:8)」と言っている位です。またパウロは、ローマ書9章では、同胞イスラエルの救いのために「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです」と言ってます。執り成しは、発展すべきものだということを申し上げたいのです。しかしそれでも、ポイントは、主の祈りの姿勢は、自分のためよりも他人を執り成す祈りだということを覚えていただきたいのです。
第三に、主の祈りの姿勢は、自分に敵する者の赦しを祈るということです。主は「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と自分を十字架につける者の赦しために祈られました。決して「孫子の代まで祟ってやる」とは言われませんでした。
海外伝道のための祈りは物理的に遠い所にいる人達に対する執り成しですが、自分に敵する者は近くにいる人でも、非常に遠くにいる人でありましょう。その人達のために、憎むのではなく「赦して下さい」と執り成して祈るのです。イエス様は「赦して下さい」と父に祈られましたが、同時にご自分も赦す権威をお持ちの方です。現に赦すために十字架におかかりになっているのです。
ですから私達が、私達に敵する者のために「赦して下さい」と祈る時には、自分自身もこの敵に対して「赦します」と祈らねばなりません。イエス様は「人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません(マタイ6:15)」と言われましたし、あの主の祈りでは「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と祈るのです。主の祈りの姿勢は、徹頭徹尾、和解することを祈るというものです。
パウロは「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです(2コリント5:19)」と言います。神から委ねられている和解の言葉というのは何でしょう。それは全能の神イエス様の赦しを期待して「赦して下さい。赦します」ということであります。
イエス様は、自分を十字架に架けている者達のために、憎むことをせず、むしろ「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈られました。これが主の祈り姿勢の手本であると私は信じるのであります。
韓国クリスチャンには、国民的英雄と尊敬されている方でソン牧師がいます。私も何年か前、その記念館を訪問したことがあります。1946年、共産思想化した青年ゲリラに自分の二人の子供を殺されても、涙をこらえつつ自分の子供を殺したその青年を赦し、その青年が死刑判決を受けると助命を嘆願し、更にはその青年を養子として引き取り、その青年をクリスチャン教育をし聖書学校へ入れ、やがてその青年は伝道者になったのです。
最後に覚えていただきたいのは、こういう主の祈りの姿勢を持つことが、人を永遠の命に導くということです。ここでは、二人の強盗が、イエスさまと一緒に十字架に架かりました。一人は、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と言いました。このとき、主のような祈りの姿勢を持っていないなら、赦しを求めている人に、つまり和解を求めている人に、「何をいまさら言ってるの」とでも言ってしまうかもしれません。しかし、和解をすることが主の祈りの姿勢の基本である主にとって、この時ただちに、主は「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と言われました。
主の祈りの姿勢は、いつも永遠の父なる神に期待し、自分のためよりもむしろ他人のために祈るという献身の姿勢であります。また主の祈りの姿勢は、他人のために祈る祈りの中でも、彼らの罪の赦しを祈り、神との和解、人と人との和解を求める祈りであります。それが出来るのは「私たちに負いめのある人たちを赦しました」と宣言することで、まず自分の罪を赦される必要があります。
この時、その祈った人々と共に、あなたも赦され、その祈った人々が天国に行くと共に、あなたにも天国が、永遠の命が約束されるのです。
あなたがこの主の祈りの姿勢を、しっかりと自分のものにして、神との和解、人との和解を受けられるように祈ります。アーメン