2007年4月15日
洗礼論
私たちの週報には、「あなたがイエス様を救い主として信じたけれど、まだ洗礼を受けておられないのでしたら、是非先洗礼をお受けになるようにお勧めします。この教会では、ほぼいつでも洗礼式を挙行いたします」と書いてあります。これは私が日本にいた時に、教えられた受洗のプロセスとはいささか違います。日本では大体、洗礼を受ける決心をすると、それから何週間かにわたって受洗準備講座のようなものを受けるのが普通ではないかと思います。アメリカでは、そういうことは後からやることはあっても、それが受洗の準備と言う感じではないように思います。ですから、極端な話、洗礼式のある日に、「それでは私も信じましたから、ついでに洗礼を受けさせてもらいましょう」と申し出ても、洗礼を授けてくれると思います。受洗準備講座などと言っていたら、移動が激しいこの国では、受洗のチャンスを逃してしまうこともあります。ただ、私どもが週報にそういう風に書いておいても、それを読んで、「それでは私にも洗礼を授けてください」と申し出た人はないと思います。
理由はいろいろあると思いますが、その一つは、やはり日本人にとっては、洗礼を受けるということは名実ともに、日本的な宗教習慣から離れて、まったく新しい世界に入るという心配、というか恐れがあるのではないかと思います。日本人の場合は、口先で「ハイ信じました」ということは、案外楽だろうと思います。相手が熱心に勧めてくれたので、口裏を合わせて、「ハイ、信じましたよ」ということは、日本の習慣では、あると思います。それを「ウソを言った」と言うふうには受け取りません。そういう告白なら、私の両サイドの親たちもいたしました。しかし伝道した私たちは、そういう告白を、確信を持って「そうなんだ。この人は信じて生涯を主に献身したのだ」などとは思わないでしょう。ウソも方便とまでは申しませんが、福音を聞いた後、「信じます」と言っただけで、それがただちに救いにつながるかどうかと申しますと、それはかなりクエッションでしょう。それが証拠に、「それでは、信じたのですから、洗礼を受けましょう」と問えば、必ず「ちょっと待ってくれ」とか言って、洗礼を受けることは避けます。
ですから、日本人にとっては、洗礼を受けるということは、キリシタン時代の踏み絵のような衝撃があるに違いありません。しかしそれでは「洗礼を受けたら、もうその信仰は確かか」と問われますなら、それでも分かりません。とは言え、洗礼は日本人の間では、確実にクリスチャンになるための儀式だということは分かっておりますので、何らかの形で、信仰を持ったという強いインパクトにはなるでしょう。アメリカでは、日本ほど洗礼のことをやかましく言わない傾向があるように思います。実は我が家の娘のチャールズ君など、高校生の時に救われたと申しましたし、毎週教会に通っている青年でしたので、てっきり洗礼を受けていると思っておりました。ところが、結婚前になって、「まだ洗礼を受けていないと思う」と言うので、あわてて私が洗礼を施しました。しばらくしてチャールズ君の母親は、「あらチャールズは、洗礼を受けていますわ(幼児洗礼)」と言うのです。親もチャールズ君に教えなかったし、彼自身も、どっちでもいいと考えていた様子があります。
私どもアッセンブリーズ・オブ・ゴッドでは、信仰告白の上で洗礼を授けますので、幼児洗礼をいたしません。しかし私は、幼児洗礼を受けている人で、「私は洗礼を受けている」と言って、私どもの教会でもう一度浸礼での洗礼はしないと言う人がいたら、それは信仰の告白だけでいいと思っております。もっとも、浸礼でやってほしいと言われたら、施すことにやぶさかではありません。
私どもアッセンブリーは、全浸礼(バプテストと同じ)で、洗礼を施します。しかし本来、洗礼は一回であって、何度もやるものではありません。アメリカでは浸礼でやった人でも、「あの時は、本当に救われていなかった」などと言って、また浸礼で繰り返す人もおります。これは私の考えではおかしな話です。バプテスト派などでは、私たちアッセンブリーのやった浸礼の洗礼でも認めない教会があります。以前私たちの教会から中部の州に引っ越した方が、引っ越した先のバプテスト教会で、「受けなおせ」といわれて当惑したということを言っておりました。私は、カトリックの洗礼であっても、「父と子と聖霊の名によって」の洗礼なら、それは有効だと思います。ですから、カリフォルニアの星教会で私が牧師をしている間は、他の教会で適礼で洗礼を受けた人も勿論、その洗礼を受け入れますし、これから洗礼を受ける人でも、都合によっては適礼ででも施します。洗礼を施すスタンスは、アッセンブリー教会の中でも、教会によって、あるいは牧師によって多少違いますが、基本的には、各人の信仰告白に基づいて、浸礼で施す、というものです。
先にも申しましたが、全体的に言えることは、私が感じでは、アメリカでは日本ほど、洗礼が重要視されないということです。そういう理由からか、「救いには洗礼は、必ずしも必要ではない」と言う人がかなりおります。この提言には「イエス」とも「ノー」とも言えます。しかし大体は「ノー」でしょう。イエス様と一緒に十字架に架かった強盗の一人は、洗礼を受けるチャンスは無かったでしょう。こういう意味においてなら、「イエス」です。しかしアメリカで、そういう意見を言う人の場合、ただ「信じる者は救われる」と書いてあるその一点だけで、そういう主張をするのです。
私たちがイエス様を主「信じる」ということは、どういうことでしょうか?ある時は信じているが、ある時は信じないと言うのでは、本当に信じていることになるのでしょうか。「旧新約聖書は、誤りなき神の言葉」と言うのは私たちの確信ですが、ある個所は信じるが、ある個所は信じないという聖書に対する態度は不可能です。昔アメリカからやってきた先生が、「あるクリスチャンたちは、自ら第五福音書を作って、それを信じている」と説教していたことを思い出します。彼によれば、「悔い改め、罪、従う、献げる」などという個所は全部オミットして、「愛される、祝福される、平安、喜び、感謝、豊か、繁栄、癒し、といった個所だけの福音書を持っている」と言うのです。全くだと思います。人間とはどこまでも自分が可愛いので、自分にとってあまり都合の良くないことは、見ない、聞かない、行わないの傾向があるものです。
キリスト教の教理というものは、聖書の一節だけでは確定できない場合があります。つまり聖書のあちらやこちらに記されていることを、全体的に調和を考えて、妥当な教理として成り立たせるのです。例えば三位一体などという教理は、聖書のどこかの一節だけでは、導き出せる教理ではありません。
ですから、先の「信じるなら救われる」ということですが、確かにローマ10:9には、「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです」とあります。しかし、その前には「もしあなたの口でイエスを主と告白し」とありますから、心で信じるだけでは不十分で、告白が必要です。また、「信じてバプテスマを受ける者は救われる(マルコ16:16)」は無視するのでしょうか。あるいはマタイ10:22には「あなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とあります。信じて、告白して、洗礼も受けクリスチャンになった、しかし途中で、抜ける人もいるでしょう。最後まで、耐え忍ぶことが必要と、聖書は言っています。
「見苦しい、濡れるしカッコ悪い」と申しましても、洗礼は、イエス様自身もヨルダン川でバプテスマのヨハネから受けておられますし、何より洗礼は、イエス様自身が、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい(マタイ28:19-20」と命令しておられることです。使徒の働きを読みましても、一日に五千人とか、四千人が、洗礼を受けた記事があります。その他、カイザリヤでも、(使徒10章)、ピリピでも、(使徒16章)、エペソでも(使徒19章)、信じた人々は洗礼を受けているのです。パウロも洗礼を受けました。(使徒9章)
洗礼を受ける機会があるのに、受けないというのは、論理的には信じていないということになるでしょう。何故なら、聖書を信じるということは、聖書に従うということだからです。洗礼は、「礼」、つまり「礼典」です。確かに、形としての「礼典」より、それからの信仰者としての実質の生活の方が大切です。しかし、洗礼を受けるということは、信仰生活のスタートですから、信じた方でまだ洗礼を受けていない人は、是非早い機会に洗礼を受けて、形を整えて、信仰生活を歩みましょう。その効果は、受ける当人だけでなく、周りの人たちの大きな喜びです。「信じているから、洗礼は必要ない」などと、頑なにならず、遜って洗礼を受けましょう。必ず家族全体の、また周りの人たち全体の祝福になるはずです。普通、聖餐式は、洗礼を受けた正会員だけが受けますが、洗礼を受けていないと、聖餐にあずかれません。家族の中で、取り残されてしまいます。これが、家族みんなで、聖餐にあずかれるなら、みんなが神の家族の中にあるのだという連帯感がわいて参ります。妻の、主人の、子供の、親の、受洗をどれだけ、先に洗礼を受けた家族達は恋焦がれていることでしょう。「信じているから、洗礼は必要ない」などと、頑なにならず、遜って洗礼を受けましょう。必ず家族全体の、また周りの人たち全体の祝福になるはずです。