2007年4月8日
復活説
「私にも現れてくださいました」 Tコリント15:1-11
15:1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
15:2 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
15:7 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
15:9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
15:11 そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。
以前教会に来ていた方ですが、(牧師である私の判断では、この方は新生していたとは思えませんでしたが) その方が「主にお会いしましたなどと言う人は、頭がおかしいのではありませんか。この時代に、何処に主がおられるのでしょう」と、詰め寄って来て言わました。またその方は別の時に、他のメンバーの方が「主の声を聞きました」と言ったとたん、「何処でそんな声が聞こえるのですか。いいかげんなことは言わないでください」と食って掛かってこられました。
結局、その方はアメリカでよく見る、洗礼は受けていたけど、決して主が生きておられる方だとは分かっていない人だと思います。見える世界でしか、物事を考えられない、まるっきりの肉の人だということです。
キリスト者の確信は、信じていない人がどう言おうとも、主は復活されて今でも生きておられる神であるというものですね。
今朝のテキストは、パウロの確信です。パウロという人は、初期の頃はイエス様が神だとは信じていない人でした。もしかしたらこの中にも、そういう人がおいでになるかもしれません。しかし復活された主は、彼にも現れてくださったのです。ですから、復活なさっ主は全く予期していない人にも現れてくださり、その主を分からせてくださるということを覚えてください。ですから、それが分かると、人間本来の姿が復活するのです。
パウロはここで、「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです」と言います。つまり、この部分がキリスト教の核心であります。「伝えた」つまり「伝承」なら、聖餐式のことなどもあります。カトリックの場合ですと、マリヤが処女から生まれたということも伝承として信じられております。これは伝統と言ったほうがいいのでしょう。いろいろな伝承がありますけれども、これはキリスト教にとって一番大切なことがらです。それは、まず「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと」であり、「葬られたこと」です。
金曜日は受難日でした。確かにイエス様は死なれたのです。それは私たちの、あなた方の罪のためでした。その後、アリマタヤのヨセフとニコデモは、イエス様を葬りました。体は麻布で巻かれ、石の扉がありました。イエス様を十字架に架けた側の人たちは、ピラトという当時ユダヤを治めていたローマの総督に「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる。』と言っていたのを思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください(マタイ27:63-64)」と頼んだので、墓の前には、ローマの番兵がいたのです。しかし、「聖書に従って三日目によみがえられた」のです。そして「ケパに現われ、それから十二弟子に現われた」のです。そして最後に、このパウロに現れてくださいました。
まず第一に覚えていただきたいのは、だれもが進んでクリスチャンになろうとする人ばかりではないということです。
パウロと言う人は、むしろクリスチャンとは無関係、むしろキリスト教は大嫌いでした。そしてキリスト者と見ると、彼は迫害するサイドにいた人なのです。
私たちの周りにも、たくさんのキリストとは無関係という人がいるでしょう。
日本もキリシタンの時代は、キリスト教徒と見ると、迫害するサイドの人がおりました。しかも、処刑するほどにです。さすがに、今はそこまでする人はいないでしょう。しかし、日本語では「さわらぬ神にたたりなし」とか申しまして、「私関係ありませんの・・」という態度をする方はたくさんいます。ミツワやベイスポの掲示板をご覧になっても分かりますが、いろいろ案内がありまして、その中にはわざわざ「宗教とは一切関係ありません」と書いてあるものもあります。もっともミツワは、宗教関係のお知らせは、ひどくきらいますよね。しかし、生けるまことの神と人とは関係があるのです。
ところが、「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと」とあります。この「罪」、つまり聖書でいう罪とは、まさに「イエス・キリスト?関係ないでしょう」というキリストに背を向けることなのです。こうしてみると、私たちの周りには、どれほど多くの罪人がいることでしょう。殆どの人が、好き好んで、キリスト者になろうだなんて考えていない罪人だということです。それが証拠に、このイースターの日曜、復活の主と関係があると思って教会に来ている人は、このベイ・エーリヤで何%いるでしょう。
ところが、二番目に覚えてほしいのは、パウロはそんなことは考えていなかったでしょうが、彼は復活した主に出会って変えられたということです。「イエス様は復活された」という話は、すでにパウロにも伝わっておりました。ステパノが殉教する時(使徒8章)、彼も、そこにいたのですから。テキストに「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです」とあるのは、そのことを端的に表しています。
ただ「イエス様が神だ」と悟るには、あのダマスコ途上で主に見えるという体験が必要だったのです。「最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました」は、その時のことを言っているのです。
今日、復活なさった主は、パウロが出会ったように現れてくださるでしょうか?いいえ、「最後に」というのは、こういう形での主が現れてくださること、キリスト教用語では、「顕現」と申しますが、パウロの時が最後です。
それでは、今日、主はどうやって人々に現れてくださるのでしょう。それは、聖霊様によります。今日の時代は、聖霊様が働かれる時代です。このお方は、父、御子、御霊、すなわち三位一体の神の第三位格ですが、パウロがこのコリント人への手紙を書いた時には、すでにコリントの人ですらパウロの体験したようなキリストの復活の顕現を体験できませんでした。しかし、このテキストのちょっと前、12章で「神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ。』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません」と言います。「御霊によって」とか、「御霊による」と言う場合、は、どういう過程でか、御霊様が、その個人の内に入って、コントロールなさっていることを知るのです。つまりその個人は、御霊様によって、復活なさった主に、ある時出会っているのです。
これはまったく不思議です。ヨハネ3章でイエス様は、「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」と言われましたが、全くその通りです。
「俺はキリスト教は嫌いなの」とか、「絶対クリスチャンになど、なりませんわ」と意気込んでいる人たちがおります。昔、私がまだ日本にいたころ、ある学生さんに伝道しました。その方は、「もう来ないでくれと言っただろう。俺はキリスト教にはならないの」と、ドアをスラムして叫びました。ところが数年たって、あるキリスト教の大会に出たら、その青年がいるではありませんか。私は、「あのー、あなたは・・・」と話しかけると、向こうもこちらに気がついて、頭をかきながら、「あの時は、本当に失礼しました。今、クリスチャンなのです」と言うのです。
どのようにしてか、それは分かりませんが、確かにこれらの人々は、復活し今も生きておられる主に出会い、主の声を聞いているのです。
最後に覚えていただきたいことは、そうして、復活した主が現れてくださって、お会いするとどうなるのでしょう。
端的に申しますと、復活の力によって「変えられる」ということです。本来の人間が復活するのです。
人間というものは、創世記にもありますように神に造られた者であり、神が創造者なのです。それがアダムとエバの堕罪によって、神に背を向け、神から離れてしまっているのです。ですから、創造者なる神に対しては、無礼を働いたり、無視したり、知らぬ存ぜぬを決め込んだりする、あるいは自分で作った物言わぬ神々を拝むようになるのです。霊的に死んでいる状態ですね。こういう状態を、あのルカ15章にある『放蕩息子』の話では、「この息子は、死んでいたのに」と表現しています。この時、息子は肉的には死んでいませんでした。放蕩に身を持ち崩しているわけですし、父の所までやって来たのですから、生きていたにちがいありませんん。この場合、「死んでいたのに」は、「霊的には死んでいたのに」の意味です。この霊的に死の状態から、復活しますから、これは変わるのは当たり前です。
昨年家内が日本で仕入れてきたテレビ番組で『医龍』というのがありました。我々夫婦は相当はまりました。とにかく我々の教会には、お医者様がおられるので時々解説もお願いして、本当に楽しかったです。その中で、「心肺停止」という言葉が、時々でてきました。これは「臨終」につながる悲痛な宣言です、「甦生」という叫びは、実に力強いです。一旦心肺停止になった患者が、甦生したというだけでも、その患者は、「これからの人生は、もっと有意義に過ごそう」と、普通は考えるものです。
パウロは、かつてはキリスト者をことごとく捕縛し、牢にたたき込むといきまいていた人でしたが、「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です」と言うほど、遜っております。主に出会って、変えられたのです。それは本来の人間性が復活したのです。
「イエス様が神」ということを悟ると、普通はだれでも性格が、人間として良く変わります。乱暴な人は、おとなしくなり、暗い人は明るくなり、厳しい人は優しくなり、高ぶった人は謙虚にされ、冷たい人は、愛のある人に変えられます。グータラの人は熱心な人に変えられます。勉強ができなかった人は、それなりに出来るようになります。それは霊的に死んでいた人間が、神にかたどって造られている人間の(創世記1:27)、本来の形への復活なのであります。
そしてそれはその喜びを、更に多くの人々に伝えるという方向に必然的に動きます。パウロは「神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです」と言います。エルサレムから、彼は今日のギリシャにまで来て、福音を伝えたのです。それは人々がこの復活のイエスに出会って、復活の力を得てほしいと願ったからに他なりません。
この復活のイエス様は、今日、聖霊様を通して、あなたにも現れてくださいます。主があなたに触れてくださったら、「ハイ、信じます」と遜って、受け入れるとき、あなたにも復活の変化が始まります。ですから、是非今も生きておられる復活の主を信じる者となりましょう。
祈ります。