2007年4月15日
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
1:6 神から遣わされたヨハネという人が現われた。
1:7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
1:8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。
1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
今週からしばらく、ヨハネの福音書からの御言葉を聞いてまいりましょう。
ヨハネの福音書は、先の三つが共観福音書と申しまして、どちらかというとこの三つは似たような書き方がしてあるのに比して、読んでみると分かりますが、随分違った感じがします。それは書かれた年代が、先の三つが恐らく60年代終りまでには記されているのに対して、ずっと後代(おそらく第一世紀の後半)に記されているという理由にもあると思います。ヨハネは、すでに先の三つの福音書の一部、あるいは全部を、見ていたに違いありません。記者は使徒ヨハネで、おそらく使徒たちの中では一番若かったであろうことと、復活の証人としては一番長生きしたであろうことが、この書のそういう後代の出現を可能にしたのでしょう。
ヨハネの福音書は、その書かれた目的が、「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである(20:31)」とはっきりあるように、イエス様の神性と、そのイエス様を救主なる神として信じることの重要性を前面に出しております。
原語の文体は非常に素朴で、読みやすく、まずギリシャ語を勉強する学生は、最初に読む新約聖書としては、大体ヨハネの福音書です。しかし、文体が素朴であるということは、内容が浅いということではありません。実はその最初から、非常に深遠な意味を持っているのです。ことにその最初から、そのままでは、なかなか読み下せない内容であります。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」を読んで、その意味が簡単に分かる人は、なかなかいないと思います。ですから、尾山令仁という先生は、次のように」訳しております。これは原語をそのまま訳するというより、その言わんとする内容を訳していると言えましょう。 (以下の通り)
「まだ、この世界も何も無かった時、すでにキリストは存在しておられた。キリストは神と一緒におられ、また神ご自身であられた。このように、キリストは神ご自身であられながら,唯一の神のうちにおられるもう一人の人格であられた。唯一の神には三人格があって、父と子と聖霊である。キリストは子であられる。すべてのものは神によって造られた。だから、神であられるキリストによって作られないものは一つもなかった。神であられるキリストには、本当の命があり、この命こそは、人間が歩む道を照らす光にほかならない。キリストの命は光として、やみの世界に輝いており、やみの世界は、決してこれに打ち勝つことはできない」
すでにこの尾山訳でも分かるように、この最初の5節のうちで、(ことば―キリスト)ということを教えています。また創世記1章の初めに、「初めに、神が天と地を創造した」とありますが、このヨハネの福音書にも創造記事があり、その創造の担い手をキリストとし、「唯一の神のうちにおられるもう一人の人格」と言って、父なる神と区別しています。
更に節を追ってまいりますと、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とあって、ことば―キリスト―神 という図式が出来ます。尾山訳では、「キリストは人間となられて、私たちのいるこの地上に来られた」となっております。つまり今から約2000年前、歴史の中に現れてくださったイエス様は神だということを教えているのです。
ちょっと長くなりましたが、ヨハネの福音書に関する緒論は、これくらいにしておきましょう。
今朝は最初からの14節から、『ことばの神』と題して、御言葉をお取次ぎいたします。
「ことば」というものは、非常に力があります。一言で人の人生を立ち上げたり、ひっくり返したりする力がある場合があります。「きもい」と言われて自殺した児童がおりました。この場合、「きもい」は、人を殺す言葉になったわけです。因みに、この「きもい」は恐らく最近の言葉で、私が日本にいた時代には聞いたことがない言葉です。「お前はダメだねえ」ばかり言われていた少年が、ある時、ある人から、たった一言「大丈夫さ、君だって出来るよ」と言われたことがきっかけで立ち上がりました。
こういう場合、落とす方も上げる方も、言葉は大切な役目を果たすわけですが、私たち人生にとって決定的な言葉ではありませんね。落とす方は論外ですが、上げることに成功した言葉とだとしても、その時だけ、あるいはその人の人生のうちだけで、永遠ではありません。
ことばの神は人格であり、人に神の子となる特権を与えます。ですから、そのことばの神を受け入れ信じて、神の子となるべきです。
まず確認したいことは、「ことばが神」だということです。テキストに、「ことばは神であった」とある通りです。偶像の宗教では、「何の某さんは神」であると言う表現をします。もっとも、誰かが神だなんて言うのは、気が引けるのか、「神様のような方」とか、「偉い方」とか、「超人的な方」と言う表現をして、聞く人に神的なお方だと思わせてしまうのですね。「思ったのは、思った方の勝手ですから、我々には責任はない」というやり方でしょうか。
「長い修行を積んだ偉い方」という表現もよく聞きます。しかし、聖書の神の場合は、私たちにも分かる「ことば」と一体です。ヨハネは、「初めからあったもの」と表現しただけでなく、「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて(1ヨハネ1:1)」と言って、「ことば」の神が、実に私たちに近い、誰にでも分かる方であることを教えています。
ことばは神であるということは、人格だということです。これは、尾山訳でなく、私たちのテキストの新改訳でも、「すべてのものは、この方によって造られた」と言う人格的表現をしています。口語訳ですと、「すべてのものは、これによってできた」という、人格がよく分からない表現で、これが新改訳聖書の翻訳当時、翻訳委員達の口語訳への不満のひとつだったとも聞いております。
キリスト教の儀式、例えば結婚式にしても、葬式にしても、「言われていることが分かるからよい」と肯定的に捉える人が、未信者の中にもかなりいます。人格であることばが語られるなら、これは説得力もあり、温かみがあるのも当然です。だれにでも分かることばですから、「ことば」−「神」の関係に矛盾があるはずがありません。
二番目に知って頂きたいのは、そのことばの神は、「言葉は人となって、私たちの間に住まわれ」とあるように、見える形であるばかりか、この世で身分の低いとみされている人々にも、「聞き、見、触れる」ことが出来る形で、この地上に来られたのです。それがイエス・キリストです。
神を知るために、難しい学問が必要だというわけではありません。今日では、さすがにアメリカでも字が読めない人は少なくなりましたが、1880年、私が東京後楽園球場で行われたビリー・グラハム大会に行った時、そこに来ていた海兵隊の青年は、字が読めませんでした。私はビックリしたことを覚えています。アメリカでも奴隷時代のアフリカン・アメリカンは、まず読める人は少なかったでしょう。しかしことばなる神は、そういう人々には、説教者が語ることばとして、根付きました。決して「何だか分からないけど信じる」というタイプの、信仰ではありませんでした。
修行も必要ありません。修行は自己の努力という感じがしますが、ことばが肉体をとって、私たちのところに来てくださったという意味は、神のほうから一方的に近づいてくださるという意味です。
三番目に覚えていただきたいのは、何故、ことばの神が来られたかです。それは、「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった」とあるように、人間は、このことばの神を知らないと言う「闇」の状態にあるからです。
想像してみてください、子供を育てることを。ミルクをあげて、おしめをとりかえ、お風呂にいれて、病気の時はお医者さんに連れて行き、泣けばあやして育てます。学校にいけば、学費を出して、勉強を手伝い、疲れたらおやつをあたえ、着る物、履く物だけでなく、ありとあらゆる必要なものを与え、加えて立派な人に育つように、信仰深く育つようにと、日夜父なる神に祈ります。そうした親に、その実の子から、ある時、「あんただれ」 と言われたら本当に、悲しいと思いませんか? しばらく前に、渡辺謙さんの『明日の記憶』という、アルツハイマー病に関した映画をみました。あれは最愛の人でも、覚えていなくなるという胸が痛くなる病のようです。
人間は、「すべてのものは、この方によって造られた」とあるように、イエス様によって造られたのですが、多くの人間のイエス様に対する態度は、なんと寂しいのでしょう。ことばの神は胸を痛めて、この地上に来られたのです。
最後に覚えていただきたいのは、このことばの神、イエス・キリストを受け入れ、信じるなら、神の子とされるということです。テキストには、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」とあります。この書き方ですと、「受け入れ、信じる」人は、すべてではないように読めます。しかし、あなたには特権を受けるグループの中に入ってもらいたいのです。何故か? それは、「闇」の中に生きているより「光」の中に生きたほうがよいからです。この「光」は「まことの光」、つまり「真理の光」だからです。
イエスさまは、今日は目に見えませんが、聖書という命のことばとして、今も生きておられ、私たちが、聞き、見、触れる形で存在いたします。ですから、聖書は、単なる本ではないのです。聖書信仰ということばもあるくらい、聖書は、ことばの神そのものです。
私たちクリスチャンの確信は、「聖書は神のことば」であります。つまりロゴスという、確かなことばで今も語っていてくださる神なのであります。考えてみてください、世の中には何と物言わぬ神、あるいは不確かなことを、あるいは訳の分からないことを言う神が多いことかということを。聖書の神は、永遠に変わることがありません。
このことばがどうして今も生きておられる神だと分かるのかですって? それは尾山訳の3節に、父、子、御霊としての神という語がありますが、この父、子、御霊は、三つの人格をお持ちですが、一体の、唯一の神であります。ですから父、子、とともに御霊が働いているのです。「神は霊です(ヨハネ4:24)」から、目には見えません。しかしことばの神が働いておられる時、確かに御霊なる神が働いておられるのです。ですから、詩篇119:130が「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」というようなことが起こるのです。
あなたが、この人格である聖書のことば、ことばの神を信じ受け入れて、真理の歩みをなさるように切望いたします。
祈りましょう。