2007年4月22日
3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
3:9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。
3:11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。
3:12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。
3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。
3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
昔、日本にやって来たアメリカの宣教師が、たどたどしい日本語で、「ニコデモも救われます」と言うべきところを、「ネコデモ救われます」と言ったために、日本の聴衆が、「キリスト教とは驚いた宗教だ。猫でも救われるそうじゃ」と言った笑い話がります。しかし、そういう苦労をしながら、宣教師たちはイエス・キリストの福音を日本に伝えたのですね。
今朝の説教は、『新生』と題して、ニコデモのお話をいたします。私どもアッセンブリーズ・オブ・ゴッドは、新生ということを救いの条件にしていて、自らの信仰告白で洗礼を授けます。新生の体験は人それぞれで、それを機に劇的にすっかり変わる人もいますが、それを機に、それから少しずつ変わっていく人もいます。またその時は、確かに体験したのですが、また戻って、また進んでという風に、着かず離れずという形での信仰の人もおります。また新生の体験は持ったには持ったのですが、それからすっかりまた世の中の生活に戻ってしまって、それっきりになると言う人もいましょう。また、新生の体験は持っているわけですから、昔にやった信仰告白と洗礼を思い出して、本当に死ぬ直前に、悔い改めるかもしれません。
ただ、あんまり新生と自らの信仰告白を強調しすぎますと、「それでは信仰告白出来なかった乳幼児はどうなるのだ。あるいは知恵遅れで生まれてきた子はどうなるのだ」ということになります。そういう人たちを、「新生の体験がなく、自らの口で信仰告白できなかったから、『救い』はないのです」と、切り捨てることは、果たして妥当だろうかと思うのです。極端な人たちは、そういう無茶を申します。それに対して、私が学んだ長老派の神学では、片親が救われていて、そして親が望むなら(当然、望みますが)、すべての子供達は幼児洗礼を受けられます。つまりそういう信者の子供達は、すべて契約の子供として、聖い、救いの中にあるという理解です。
私たちアッセンブリーの洗礼論はバプテストに近いので、幼児洗礼をいたしませんが、それでもまだ洗礼を受けていない信者の幼い子供が不幸にして亡くなったとき、「この子は、信仰告白していませんでした。残念ですが天国へ入ったかどうかは、分かりません」などという、無慈悲な説教はいたしません。まず間違いなく、「神の計り知れない計画で、この子は、短い生涯を終えました。しかし、最早、悩みも苦しみもない天国で、『パパやママもきっと来てね。そしてそれからはずっと一緒に暮らそうね』と言っているに違いありません」と言った類の葬式説教を聞くでしょう。これは、実質的には長老派神学の、「信者の子供は、救いの契約の中にある」と同じですね。1コリント7:14 には「なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです」とあります。ですから、妻でも夫でも、どちらかが救われることは、配偶者、子供まで、救いの契約に入るという理解です。
我が家の子供達はルークが10歳、キャロルは8歳の時に洗礼を授けました。彼らの話を聞くと、何時ごろからはっきり主を意識するようになったかは、「中学の時」、「高校のとき」、あるいは「大学に入ってから」、と実は、あまりはっきりしていません。長老派教会の人たちは、何世代も幼児洗礼で信仰を受け継いでおりますので、本当に何時新生の体験を持ったのかはっきりしない人が、たくさんいるそうです。
ただ、長老派教会では、聖餐式は幼児洗礼を受けているだけではダメで、必ず信仰告白式を経て、陪餐会員にならないと受けられません。信者の子供は、良く聖餐式の時 「僕もほしいよ」とか「私も飲みたい」と言います。私としては、なるべく早く陪餐会員にしてあげて、親と一緒に聖餐にあずかれるようにしてあげたほうが良いと思います。
さて色々話しましたが、配偶者が、あるいは親が信者だからと言って、新生の体験が軽んじられるべきでないことは言うまでもありません。
ニコデモとういう人は、パリサイ派の学者で、サンヒドリンという宗教議会の議員でした。ですからユダヤ教的に言えば、当然会員で、しかも重鎮でした。しかしこのニコデモの立派なところは、イエス様に対して、「あいつはどんなことを言うのだろうか」と言った、批評的で、無礼な態度ではなく、真摯に主が教えておられることを聞きたいと思って来たと言うことです。
キリスト教会や、クリスチャンが、「そのままでは天国へ行けませんよ」と言うことを聞いたら、「知ったことか」と言った横柄な態度や、「私らとは関係ありません」という態度で、聞きもしないのではなく、少なくともまじめに聞く姿勢を見せることは、キリスト教の真髄を知る上で大切なことです。
ニコデモは、イエス様に「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われて驚きます。英国国教会だけでなく、どこの団体でも信徒の子供は信徒という考えが強すぎる神学ですと、誰でも彼でも天国へ入れるという信仰になって、実体が伴わなくなります。クリスチャンでありながら、生活はまったく世の人と同じということになります。ニコデモは驚きました、自分が神の国に入れないなどとは、まず考えていなかったのでしょう。ですから、「もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか」などという頓珍漢なことを言います。
イエス様は、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません」と言われました。これはバプテスマを指しています。しかし洗礼というものは、後の「御霊」と表裏一体の関係です。ただ、「洗礼を受けたらいい」というのでもなく、反対に、「ただ御霊によって生まれたので洗礼は関係ない」、でもないのです。パリサイ派の人たちは、バプテスマのヨハネのやっていた、悔い改めのバプテスマすら受けていなかったでしょう。
どうしたら新生の体験を持つことが出来るでしょう? テキストは、「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」と言います。
正直なところ、分かりません。私は遠藤周作氏の小説では『侍』というのが一番気に入っています。支倉常長を描いたものですが、伊達藩が外国との通商の有利になるだろうと思って、心無くも受けた洗礼でした。ところが帰国してみると、日本はすでに、キリシタンは禁制になっており、支倉の仕事は徒労に終わったばかりでなく、洗礼を受けたが故に、厳しい詮議が待っておりました。この小説の最後に、ヴァン・C・ゲッセルという方の書かれた当時はカリフォルニア大学の学者が、解説があります。それによれば支倉の晩年は、正確には分からないのですが、「1640年、徳川幕府は支倉の次男の権四郎が、密かにこの禁制の宗教儀式を執り行っているのを発見したという。こうした事態を放置していたかどで、支倉の長男権三郎は切腹を命ぜられたのであった」とあります。つまり、仕方なしに受けた洗礼でも、どこかで聖霊様が加わってくださって、その信仰を確かなものにしてくださった、そして父支倉常長は殉教したが、その信仰は息子に引き継がれていたと、小説家遠藤は、解釈したのでしょうか?聖霊様の働きは、実にミステリアスです。
ニコデモの「どうして、そのようなことがありうるのでしょう」に対して、主は、「わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう」と言われます。そして、民数記21章から、「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」と言われます。
今日でも、このすでに「分かっていること」を「分かっていることとして」受け入れない、そして信じないのですから、新生の体験がもてないのでしょう。
「イエス・キリストはあなたの罪のために、十字架に架かって、お死にになった」という、ステイトメントは、聖書にも知られることですし、教会や、クリスチャンたちが語っていることです。事実主は十字架で死なれたのです。それを受け入れて、信じてごらんなさい。
「鰯の頭は神である」というステイトメントは、仮にあったとしても、イワシが神としてのみ業を行ったということは、受け入れがたい、また信じがたいことなので、それは不可能ですが、イエス・キリストが死から復活したということは、証人も多かったし事実です。それに、それを信じて生活が、暗闇から光に変わった人の話は枚挙にいとまがありません。ただ、それを遜って受け入れるかどうか、信じるかどうかの話です。
この時代、殆どの律法学者たちが、イエス様のなさることには批評的な冷たい目で見ておりました。ところがこのニコデモは、律法学者でありながら、「聞こう」という遜った思いがありました。彼が新生して救われていたかどうかは、分かりませんが、イエス様に対し他のパリサイ派の学者が取った態度とは違っています。
繰り返しますが、テキストにあるように、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」とあるように、受け入れ信じることです。「この方を受け入れることによって、私の人生は必ず開ける」と信じ続けてごらんなさい。不思議な主の迫り、平安、喜び、感謝、希望を感じるようになるでしょう。それは新生したからです。どうして? 分かりません。
It doesn’t matter!
祈りましょう。