2007年4月29日

「王室の役員の息子のいやし」 ヨハネ4:46−54

4:46 イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。

4:47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。

4:48 そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」

4:49 その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」

4:50 イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。

4:51 彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。

4:52 そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、七時に熱がひきました。」と言った。

4:53 それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている。」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。

4:54 イエスはユダヤを去ってガリラヤにはいられてから、またこのことを第二のしるしとして行なわれたのである。

  癒しの伝道は、非常に効果的でありましょう。病気の人は、何とかして癒されたいと願うでしょうし、それが癒されたとなると、その不思議な力に、思わず感動してしまうことは、十分に考えられることです。イエス様は、その伝道生涯では、何度か癒しのみ業をなさっております。

  今朝のテキストも主イエス様の癒しのお話です。イエスさまが、カナに来られました。ここはヨハネ2章にある、水がぶどう酒に変わった奇跡のあったところです。そこに病気の息子を持った王室の役人が登場します。

  まず覚えておいて頂きたいのは、この大ガリラヤ伝道の始まりは、AD で言いますと、大体27年の12月頃から29年の4月頃まで、大体16カ月くらいだと思われます。イエス様誕生時代の王様は、ヘロデ大王でしたが(英語ではHerod the Great と言います。)、大王の死から、王国は息子達三人に分けられたのです。このガリラヤ地方を治めていたのは、ヘロデ・アンテパスと言う人で、大方福音書で「ヘロデ王」と言う場合は、この王を指します。ですから、王室の役人と言う場合、このヘロデ・アンテパスの配下の人だったのでしょう。ですから、ユダヤ人であったと考える方が自然でしょう。この人は、過越しの時に、エルサレムでイエス様を見ているかもしれませんし、その噂を知っていたのでしょう。通常はカペナウムにいるのですが、わざわざカナまでやって来たのです。どうしてか? 自分の息子が病気で死にかかっていたからです。こういう場合、人々は「イエス様、おいで下さい。あなた様が来てくださって、祈ってもらえれば息子も癒されるに違いありません」と言う信仰で、往診のお医者さんをお願いするように、頼みに行くと思うのですね。近頃の若い人は、往診などという制度があることすら知らない人がいると思います。昔は、動けない患者さんのところには、お医者様が訪問して、診療活動をしたものです。それを往診と言います。

   しかし、この時イエス様の、この王室の役人に対する扱いは、ちょっと違っておりました。この個所は、今日私たちの信仰態度を考える場合、非常に大切なところです。主は、今日、しるしを見て信じる信仰者より、言葉を聞いて信じる信仰者を期待しておられます。ですから、私たちは、目に見えるしるしや奇跡や、不思議が起きないとしても、言葉を信じる信仰者であるべきであります。

   第一に考えていただきたいのは、しるし、不思議は普遍的に起こるかということです。つまり、例えば癒しという奇跡は時代を超えて、どこの場所とかに拘らず、普遍的に起こるかということです。これは、常識的に考えても明らかで、そんなことは聞いたことがありません。私たちも、これまで多くのシリアスな病気の人達のために、祈りました。そしてある時には癒されましたが、ある時は癒されませんでした。そしてお医者さんの治療で治らないような病気の場合、癒されないことのほうが多いように思います。勿論、そこに主がおいでになり、その主が、「御心だ、癒されよ」と全能の力を発揮なさるなら、そういう病でも癒されるでしょう。

   イエス様は、「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか(マタイ6:27)」と言っておられますし、主の許しがなければ、「あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません(ルカ21:18)」と言っておられます。これは笑い話みたいですが、正直な話、私の年齢でも髪がある人はいいですよね。若く見えるし、カッコいいですよ。最近は、ツルツルのボールドヘッドも多少流行りですが、やはり髪を増やすことのほうが、盛んだと思います。チョー先生も、若い時からかなり薄かったですし、最近では、すっかりテカテカですよね。癒しの伝道者のチョー先生でも、髪が、ミヨイクログロになる奇跡は起きなかったようですね。それはチョー先生の頭からは、髪の毛が落ちるのが主の御心だったからと理解すべきだと思うのです。それは私についても言えるでしょう。チョー先生は、ほかの人達の、癒しの祈りに忙しくて、自分の髪についてはお祈りなさらなかったのでしょう。

  確かに、神であるイエス様の癒しのみ業は、イエス様が「よし癒そう」と思われたら、それは御心ですから、癒されるでしょう。しかし、ただちにそういう目の前での癒しはしない、というのも御心であります。そういう場合は、期待していた人たちは肩透かしを食らったような感じになるでしょう。この王室の役人は、お願いしたら、イエス様は来てくださるであろう、という期待があったと思います。しかし、そういう目に見える顕著な奇跡が起きなければ、キリスト教は信じるに値しないのでしょうか?

  第二に覚えていただきたいことは、癒しは、主のみ心によって、起こることも起こらないこともあるが、奇跡や不思議に頼らずとも、確実に変わらない御言葉に頼るという信仰姿勢があるということです。

  イエス様は、この王室の役人に、「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています」と言われたのです。すると、役人は、「その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた」とあるのです。

  奇跡や不思議を見て信じる信仰は、言葉を信じる信仰よりレベルが低いことは言うまでもありません。勿論、信仰は持つことのほうがいいに決まっていますから、奇跡や不思議を見て信じることは素晴らしいですが、いつもいつも見える不思議や、奇跡に期待する信仰は、御言葉に信頼し、御心がなることで主を崇める信仰より、程度が低いとことは当たり前です。そういう信仰は、自分が願ったような結果が起きないと、「主は、もう私を愛しておられない」ということになりがちなのです。  

それまで全く奇跡に寄りすがっていたこの役人の信仰は、まだ見ていないが、御言葉の約束に信頼するという、もう一歩高い次元に来たのです。

しかし、この御言葉に信頼するということは、なかなか大きな信仰を必要としますね。何故かと申しますと、目に見えないからです。しかし、ヘブル書に「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです(1節)」とあるだけではありません。その次の2節には、「昔の人々はこの信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」とあります。イエス様は 「あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか(マタイ7:11)」と言われました。つまり「神はよいものを下さる。よいことをしてくださる」という約束の言葉を信じたら、その通りになるという信仰です。

ノラ・ラムと言う人がおりました。共産中国からやって来た人で、信仰の故に銃殺になる時、なんと銃殺隊の兵士達の目がくらんで、弾が一発も当らず助かったというのです。こういうのは奇跡ですね。ダニエル書6章には、ダニエルがライオンの穴の中に投げ込まれた記事があります。あの時、獅子はダニエルに危害を加えませんでした。しかし皇帝ネロの時などは、おびただしいクリスチャン達が、ライオンの餌食になりました。いわゆるダニエルの時に起こった奇跡は起こりませんでした。日本のキリシタンの時も、数え切れない信者達が、磔、火あぶり、水責め、熱湯かけ、ありとあらゆる拷問の末、いのちを絶たれました。奇跡は起こりませんでした。しかし、彼らは、「キリストのための苦しみをも賜わった(ピリピ1:29)」と信じ、「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません(ヨハネ11:25-26)」の約束を、そのまま信じたのです。

この役人は、「冗談ではない。子供の使いじゃあるまいし、手ぶらで帰れるものか。来て下さいよ、イエスさんよ。お金なら、ちゃんと出しますから」などとは言いませんでした。テキストにもあるように、「イエスが言われたことばを信じて、帰途についた」のです。

 最後に覚えていただきたいのは、その御言葉を信じる信仰こそ、神の栄光を見るのです。

まずそういう信仰は長く続くということです。先週の説教で、私は聖書の引用を通して、『救い』とは、ただ信じるだけでなく、信仰を公に告白し、水のバプテスマを受け、最後までその信仰を大切に持ち続けることが大切だと申しました。御言葉にウェイトのある信仰はよいのですが、しるしや不思議にウェイトのある信仰は、それが見られなくなると、長続きしない傾向があるのですね。これはエンターテイメント的教会も同じです。何か新しい出し物をし続けている間は、会衆も集まりますが、それが切れてくると、「つまんない」と言って、来なくなる傾向があります。その時限りでは、神の栄光を顕すことはできないでしょう。癒やしも、起こっている間はいいのですが、願ったように癒やされない場合は、「神さまは、私を見捨てた」になる傾向があります。

役人は、カナからカペナウムへの道を戻り始めました。ところが僕がやって来て、「彼の息子が直ったことを告げた」のです。これは、「だんだん良くなりつつあります」と言う意味ではなく、その時に、「直った」のです。主が、ことばでもって、「あなたの息子は直っています」と言われたのなら、割引なしでその通りなのです。ポイントは、まだそれを居ていない時に、それを信じることができるかということです。この役人は信じました。素晴らしいことは、息子の病が癒されたことより、その癒しを通して、「彼自身と彼の家の者がみな信じた」ことです。その中には、おそらく癒された息子も入っているでしょう。

カナでの最初の奇跡は、水がぶどう酒になる奇跡でした。この場合、「ワーこれで、飲みたい時は、水がめに水を張っておけばいいのね。飲みたい奴は、よって来い」という意味で、すごいことではないのです。この奇跡を通して、「弟子たちはイエスを信じた2:11)」のです。今度は、この奇跡を通して、この役人だけでなく、その家族の者達も信じたのです。両方とも、主の言葉によっております。

皆さん方の中で、こういう不思議やしるしを見て、信じた人は何人いますか?確かに、そういう人もいるでしょう。それはそれで、それがきっかけとなって、御言葉を信じる信仰に導かれるなら結構なことです。けれども、大多数の人たちは、主が「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです(ヨハネ20:39)」と言われたように、見ないで、ただ御言葉だけで信じたと思います。「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ(イザヤ40:8)」とあるように、御言葉に信頼を置く信仰は、永遠なのです。御心の結果として、私たちにとって願わしい、例えば癒しと言う奇跡が顕されるかもしれません。そうでないかもしれません。しかし、ヘブル書の記者が、「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(ヘブル11:13-16」と書いているように、御言葉によって信仰が成長するなら、この地上においての、病の癒しというものは、絶対的な問題にはならなくなるものなのです。

癒しの奇跡が拝されることは、ことに新しい人たちを獲得するには、素晴らしいことでしょう。しかし私たちが最終的に、よりすがるのは目に見える奇跡やしるしではなく、聖書の御言葉であることを確認しましょう。そうして、永遠の御言葉に信頼をして、長く信仰を保つようにしましょう。必ずそうした生き方が、神の栄光を顕すことになります。

祈りましょう。