2007年5月6日
6:22 その翌日、湖の向こう岸にいた群衆は、そこには小舟が一隻あっただけで、ほかにはなかったこと、また、その舟にイエスは弟子たちといっしょに乗られないで、弟子たちだけが行ったということに気づいた。
6:23 しかし、主が感謝をささげられてから、人々がパンを食べた場所の近くに、テベリヤから数隻の小舟が来た。
6:24 群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来た。
6:25 そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか。」
6:26 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
6:27 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
6:28 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」
6:29 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
6:30 そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。
6:31 私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」
6:32 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
6:33 というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
6:34 そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
6:36 しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。
6:37 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。
6:38 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。
6:39 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」
人間にとって、「いのち」ほど大切なものはありません。私の好きな落語に『しの字嫌い』と言うのがありますが、「死ぬ」ということは、すっかり人生に絶望した人なら分かりませんが、殆どの人が嫌います。あの落語では、「し」という「音」が「死」につながるということで、「し」という「音」を発音しないようにということでした。42などは、「死に」と読めるので、日本では嫌いますが、英語圏では、7の倍数はすべて幸運の番号として知られており、大体は誰もが好きです。日本のプロ野球でも背番号42は、あまり好まれないようで、「そういう番号は外国人選手にやれ」ということか、12球団中8球団が、背番号42を外国人選手に渡した時もありました。
その大切な「いのち」には「限りがある」ということが、切ないですね。「死」の前には、なす術がありません。しかし、もし死なない、つまり永遠のいのちというものが、可能だとしたらどうでしょう。今朝は、この「永遠のいのち」というものを考えて、主を崇めましょう。
覚えてもらいたいことは、イエス様が、永遠のいのちのパンだということです。ですから、この永遠のいのちのパンなる、イエス様を食して、あなたも永遠の命を自分のものにすべきだということです。
まず、「いのちのパン」の「いのち」ということですが、これはテキストの最後、40節でも「永遠のいのち」ということを言っておられますから、これが「永遠のいのち」のことを表していることは明らかです。
四つの福音書を読んでまいりますと、「永遠のいのち」という言葉の出てくる頻度は、圧倒的にヨハネの福音書が多いのです。
実は最近立て続けに、身近な人たちで召される人がいたのです。二週間前は、私たちの教会のメンバーだった加藤咲子のお父さんが召されました。62歳でした。そして柏崎先生のお母さんが召されました。95歳だったとは言え、産みの母親を亡くすということは、辛いことだったと思います。そして先週は、メキシコ・ミッションのパブロ・アンザルド師が肝硬変で亡くなりました。彼はまだ50歳ちょっと出たくらいです。奥さまのナオミは、涙ながらに電話してきました。
日本人の平均寿命は世界一だということですが、それでも誰もがいつかは、この地上の生涯を終わります。そんな時に、「永遠のいのち」という言葉は、「エッ、一体どういうことだろう?そんないのちが欲しいものだ」と思いませんか?「永遠」ということですから、「終わりがなく、どこまでも生き続ける」ということです。「辛い人生を、そんなに長く生きても仕方がない」と思う必要はありません。聖書で言う「永遠のいのち」は、「もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない(黙示録21:4」世界なのですから。
人が生きるためには、いくつかの大切なものがありますが、言うまでもなく食物は欠くことが出来ません。今日、食べ物に苦労している人たちがいる中で、「こういうものは体に悪い、こういうものは健康によい」などと、何を食べるかを選択できる国に住んでいる私たちは、豊かな国に生きているものだと思います。しかしどれだけ栄養価の高い食物を食べても、あるいは栄養のバランスを考えて食べても、やがて人間は死にます。つまり、このイエス様の言われる「永遠のいのち」というものは、フィズィカルないのちのことではない、フィズィカルないのちをこえた、いのちであります。
人間の世界でも、「この世にいてもらっても仕方がない人」と判断されて、今なおアメリカや日本のように死刑制度がある国があります。これは法律的に正しい人と、破る人とを分け、フィズィカルないのちを「断つ」と、「断たない」に分けます。神の国では、霊的に永遠に生きる人と、霊的に永遠に断たれる人がおります。優しさ、愛情、正義感、信仰心、こういうものは霊的領域の問題です。ことにその基本である信仰心は大切です。イエス様が言われた「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある(マタイ4:4)」ことでも分かると思いますが、食べ物を食べて、ただ肉体的に生きているだけでは、人間としては本当は生きてはいない、むしろ死んでいるのです。
あのルカ15章の『放蕩息子の話』(ルカ15章)を思い出してください。遊女に身を持ち崩していた時分の弟息子は、確かに肉体的には生きておりましたが、霊的には死んでいたのです。ですから父のもとに帰って来たとき、父は「この息子は、死んでいたのが生き返り(v.24)」と言ったのです。覚えてほしいのは、この話で、父というのは「父なる神」を表しています。人間はだれもが父なる神のもとに帰るということが、霊的に生きることになるのです。
イエス様は、テキストでは自分をさして「いのちのパン」と言われました。これは6章の最初の方を読みますと分かるように、五千人の給食の話の後です。五千人の給食は、子供が持っていた、五つのパンと二匹の魚で、男だけで五千人のおなかを満たしという奇跡の話です。ここでの食べ物は、私たちが日々に食べる食べ物のことです。こういう奇跡をすでに見ているのですが、なお弟子達は「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです」などと言っています。このマナというのは、イスラエル人が、エジプトから脱出した際、荒野で食べ物がなかった時に、神が彼らに与えられた食物です。人間とういうものは、どうにも霊的なことがらに疎いのですね。この時代、アメリカや日本に住む人々にとっての問題は、もはやおなかを満たすパンではないでしょう。
三浦綾子さんは、よく知られたクリスチャン作家ですが、この方の秘書をなさっていた宮嶋さんと言う方は、「人生の目的が分からない」ということが、聖書に触れるきっかけだったようです。信仰者ではない時ですら、非常に真面目な方でした。それが教会で、「罪」と言われると、どうにも理解できなったようです。ところが聖書の、「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。(ローマ7:19」に出会った時、自分では正しいと思っている自分の罪深さを示されたのでした。そして悔い改めて、イエス様を信じたのでした。宮嶋さんの神のもとに帰っていない、それは霊が死んでいるのです。イエス様を信じて霊が生き返ったのですね。
弟子達は、イエス様が、「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」と言われた意味が、よく分からなかったようです。それで、「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか」と聞き返します。するとイエス様は、「あなたがたが、神が遣わした者を信じること」と言われます。
この世のことのためにだけ一生懸命になることは、霊の世界のこと、神の国のことを忘れさせます。「いのちのパンを食べる」と言うことは、勿論、イエス様を焼いて食べるとか、煮て食べると言う意味ではありません。それは、「子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです」とあるように、「(イエス様を神と)信じる」ことです。ですから、永遠のいのちを自分のものにすることは、実に単純なことです。聖書は、厚い本ですから、「そんな厚い本を読まなければならないなんて、キリスト教とは大変な宗教だ」という方がおりますが、確かに聖書を読むことは大切ですが、それよりただ一点、いのちのパンなるイエス様を信じることのほうが鍵です。
イースターの時に暗唱聖句をしました、ヨハネ11:25-26 は、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」でした。ヨハネという使徒は、「信じる」ということから、その信じた時にすでに永遠のいのちを持っているだけでなく(つまり現在終末論ですね)、死んでも必ず生き返って永遠に生きるということ(つまり未来終末論をも教えています。テキストの40節、「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます」は、そういうことです。ですから、見えない霊が復活するだけではありません。必ず栄光の体で、肉体が復活し、永遠に生きるのです。
「死んだらおしまい」ではありません。信じたその時から、永遠の命が始まっているのです。ですから、いますぐに、いのちのパンなるイエス様を信じましょう。 祈ります。