2007年5月20日

「何故信じるのか、何故伝えるのか」 マタイ28:16-20

28:16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。

28:17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。

28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

   今朝のテキストは、イエスさまが復活なさったあと、弟子たちにいわゆる『宣教大命令』をお下しになって、天に帰られるところであります。この『宣教大命令』のことを、英語では、Great Commission と言いますが、おそらく日本語と英語を比べるなら、おそらく英語の方が普及している感じがします。ただ、どちらがその語に対して忠実かというと、これはどちらもいまいちという感じがします。日本語では『大命令』となっておりますように、これは命令です。

  皆さん、これがイエス様が、天にお帰りになる際に、弟子たちに与えられた、命令であることを、どれくらいの方々が認識なさっていますか?

  よくイエス様の気持ちが分かっているクリスチャンは、必ずこれを命令だと捉えます。しかし初心者の方も「なーんだ、今日の話は、クリスチャン向けの話か。私ら初心者には関係ないのだな」と思わないでください。それで、説教のタイトルを『何故信じるのか、何故伝えるのか』としました。

  このところ、私たちの関係した人たちが立て続けに、召されました。またこの結婚式に来ている間に、私の父が入院をしたと言うニュースに接しました。家内の方の父も、今週入院するそうです。二人はまだ信仰告白をしていないのです。私の父は今年85歳、家内の方は93歳です。常識的に考えても、あまり先がないのです。

  初心者の皆さん、よくお聞き下さい。なぜ私たちクリスチャンが、イエス様を伝えることに、こうも一生懸命になるか、それは、信じる者だけに永遠の命が与えられるからです。クリスチャンというのは、「イエスさまを、よみがえった救い主」と信じた人達のことです。

  私の母は、今から3年前イエス様を信じて洗礼を受けました。ところが、父はなかなか手ごわい。若い頃、『生長の家』をかじった父は、「俺は、生長の家で救われておる」と言って、なかなか聞きません。最近腎臓が悪くなっていると聞いています。透析を受けるかどうかの境目くらいです。ところが父は、「俺は、もうそういうことをやって長生きしたいとは思わない」と言って、検査すら受けません。このまま、放っておけば、長くないかも知れません。

  いいですか、信仰の告白が出来るチャンスがあって、しないなら、そして死んでしまったら、これはもうおしまい、永遠の滅びなのです。ですから、私たちクリスチャンは、一生懸命になるのです。そうなって欲しくないからです。皆さんには、そういう危機感がありますか? 勿論懸命に伝えても、なお「信じない」人がいるかもしれません。それはその人の選択ですから、私たちクリスチャンの責任ではありません。しかし「伝えなさい」という命令に対して、伝えないなら、私たちは、その責任を、取らねばなりません。

  私が、聖書学校に入ったとき、私の家内は一年先輩で、「石原さん、エゼキエル書3:18に何とかいてあるか知ってる?」と、新入生の私に言いました。(ちょっと生意気だよね。) 私はその頃、救われて2年でした。どうでしょう、信仰歴2年の方で、エゼキエル書318に何が書いてあるか、分かる人がいますか?しかし、これは大事なみ言葉です。そこには「わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。」とあります。つまり、私たちクリスチャンが伝道しないなら、その伝道しないことによって、その伝道対象者は滅びるのです。しかし、主はその責任を、私たちクリスチャンに問われると、受け取れます。実際、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる(ロマ10:17)」のですから、キリストについての御言葉を知っている人が、動かねば、これはどうにもなりませんね。

  何年か前でした。日本に住むある婦人の姪御さんが、不治の病になりました。まだ12歳の女の子でした。その方は、私たちの近しい方でした。それでアメリカから電話で、これから最後のお見舞いに行くと言うその方に、ちょっとクレージーみたいだったですが「その子に、ぜひ『イエス様、救ってください』と祈るように伝えてください」と、手順を話しました。ところが、その方は電話口で、もごもご言っているだけで、後から結局、「話さなかった」という話を聞きました。直ぐにその姪御さんは亡くなりました。伝える側が、信じていないのですから、これは、確信を持って伝えられるはずがありません。

  テキストにもありますが、「しかし、ある者は疑った。」のです。復活なさったイエス様を見ているにも拘らず、ある人は疑います。ですから、伝える側の確信というのは大切です。あなたは伝える側として、確信をもって、この方が救い主、この方を伝えずにはいられないという気持ちがおありですか? 聞く側としては、「宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。(ローマ10:14)」なのです。

  未信者は、信者の妻や、子供たちに「自分がクリスチャンにならなくても、何か高価なものでも買ってやれば、嬉しがるだろう」と考えがちです。家を買った、車を買った、宝石を買った、海外旅行に連れて行ってやった、…こういうことで、信者のサイドが、満足するでしょうか?「ウチのだんなは、信仰はないけれども、とっても優しくて、私の好きなものは、なんでも買ってくれて、本当にいいだんなザーますのよ。ホホホホ」などと言ってる人がいたら、「アホか。…『信仰がない』と言うところを、もっと真剣に考えなさい。そして祈りなさい」と申しあげます。

   私たちの教会のオリジナル・メンバーに山下さんという方がいました。奥様は信仰者でしたが、ご主人はまだ信仰告白をしていませんでした。しかし彼は本当に、優しいご主人でした。日本でも、時々「信仰はないけれども、私のことは理解してくれて、ちゃんと教会にまで送ってくれます」という人がおります。ところが、送って下さって、またピックアップに来てくれる人はいても、礼拝に一緒に集う人は少ないものです。とろが、山下さんの場合は、一緒に礼拝にも集ってくださる方でした。知らない人は、この夫婦はクリスチャンの夫婦だと、誰もが思うような夫婦でした。それで、私が「山下さん、そろそろ決心なさったらどうでしょう」と促しました。しかしその話になると、ノラリ、クラリとかわして、なかなか信仰の決心をしませんでした。ところが走行しているうちに山下さんたち家族は、南カリフォルニアに引越しました。引っ越してしばらくして、奥様に乳ガンが発見されました。「私にとって一番嬉しいこと、それはあなたがイエス様を信じること」と、奥様はそれまでにご主人に話していたでしょうね。今でも覚えています、山下さんが電話をかけてきました。「石原先生、私は、今家内に逝かれては困るのです。しかし、万一ということも考慮しておかねばなりません。もしかしたらこれで最後になるかも知れないので、それなら、妻が一番喜ぶことをしてやりたいと思います」と言って、イエス様を信じたのです。それから、奥様は手術をして、その後再発もなく元気です。今では夫婦そろって主を崇める、カップルです。

  初心者の皆さん、是非信じてください。もう私たち先に救われたものは、必死なのです。なぜならイエスさまを信じたら永遠の命を頂けるからです。またイエスさまを信じないなら、永遠に滅んでしまうからです。これが、『何故信じるか』の理由です。そして『何故伝えるか』の理由でもあります。

  この、大切な福音を、何とか愛する人に、愛する子供に、伝えたいと、思いませんか?

  ただ、福音伝道というのは、ポイント・アクションではありません、デュレーション、つまり継続です。「もう、うちの家族はみんなクリスチャンだから、伝道する必要ないのです」と言うなら、そこから、信仰の純粋さが壊れていきます。イギリス国教会などは、国教会に属しているものはみんなクリスチャンという理解ですから、国教会のメンバーは天国へ行けると考えています。日本でいう、「私の家は仏教です」と同じ感覚なのでしょう。そこにイエス様がおられないのです。そういう信仰は本当ではありません。考えてもみてください、ロイヤル・ファミリーの子供たち全部が離婚しています。ダイアナ妃のお葬式の時、そのテレビ中継を見ていたあるアメリカの方が、“ Well, all they really need Jesus.”  と言われました。あのお葬式は、本当につらいお葬式でしたね。本物のクリスチャンの、お葬式へ出ると、「これがお葬式か」と思うほど、栄光に包まれています。それは復活の希望と、永遠の命の望みが、あふれているからです。

  クリスチャンが、伝道することをしなくなったら、そこから信仰がゆがんできます。ですから、伝道することは、そのクリスチャン自身のためでもあるのです。

  先日、私たち息子のお嫁さんになった人は韓国の方で、姓をチョイと言います。チョイと言えば、以前に「ハレルヤおばさん」と呼ばれた、チョイ・ジャシル先生を思い出します。1986年に、彼女は私たちのアパートで、家庭集会を持ってくださいました。全く、あの方の伝道熱には頭がさがります。その時の話…・

 「皆さん、伝道には、聖書と手帳と鉛筆が必要です。いつでもこれらを持ち歩きましょう」と言いました。聖書は、分かりましたが、手帳と鉛筆って?」と考えていると、「日本の皆さんは、よく電車にのりますね。電車に乗ったら、まず隣の人に、聖書を開いて『イエス様はですね』と説明するのです。その人が次の駅で降りる前に、お名前は?、住所は?、電話番号は?と尋ねて、今後訪問するために手帳にメモするのです」と言われるのです。(笑)あの当時ですら、そんな見知らぬ者が、電車で乗り合わせた人に、名前や、住所、さらには電話番号まで尋ねるだなんて…・ あんまり現実的ではないよね」と感じました。この個人情報流出にうるさい今ならなおさらです。しかし、その伝道に対する気迫はすごいと思いました。

  その当時、そのチョイ先生のお弟子さんのような韓国人の婦人クリスチャンのMさんが、サンホゼにいました。この方は、日本人のNさんと結婚していました。彼らは日本で結婚して、サンホゼに来たのですが、日本にいた時、Nさんは、Mさんを好きになり結婚したいと思いました。しかし、彼はまだクリスチャンではありませんでした。そうしたらチョイ先生のお弟子さんのようなこのMさんは、「私と結婚したいなら、クリスチャンにならないとだめなんですよ」と言ったそうです。韓国の方というのは、どうも未信者と交際しても、必ず相手が信仰を持つという信仰があるのか、未信者とのお交わりにあんまりこだわらないように思えます。Nさんは、オタオタと「どうしたらいいのですか?」と言ったので、「簡単です。私が、イエス様を救い主として信じますか?と尋ねますから、ハイ と言えばいいのです」と答えました。そうして言われたようにして、Nさんはクリスチャンになったので、結婚したのです。今では、夫婦そろってサンホゼの韓国人教会の役員さんです。

  伝道は、伝道者だけがすることではありません。全てのクリスチャンに課せられたタスクです。伝道そのものは難しくありません。「イエス様は、あなたの罪の救い主です。あなたの罪は、イエス様が十字架で死んでくださったので、赦されています。ただそれを信じるだけでいいのです。信じませんか?」とチャレンジすることです。このチャレンジが大切です。伝道は、伝える内容より、勇気がないことの故に出来ない場合が大半ですね。聖霊さまの力が必要ですね。ことに、病床では、なかなか大変です。大体は、ノン・クリスチャンの付添が病床にはいますから、「病人の枕元で、宗教の話などするな」とか、邪魔が入ります。クリスチャン同士でも、「こんな話、できるだろうか?」と考えることがあります。しかし、時間がない場合があります。もしかしたら、それが福音を聞く最後になるかも知れません。ですから、聖霊さまの助けを借りて、勇気を持って伝えるのです。

  チャレンジすると、相手は必ず、何らかの反応を示さざるをえないからです。「ハイ」というなら、それは「ハレルヤ」ですが、なかなかそうはいかないでしょう。「私は、別に救われる必要もないですよ」と言われたらどうしましょう? 「大体、イエス様って、どういう方ですか?」といわれたらどうしますか? そうするともっと聖書を読まなければならなくなります。1ペテロ3:15 には、「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」とあります。ですから、聖書を使って、説明できるようにしておくことは、聖書自身が教えていることなのです。 

  クリスチャン・サイドがそうまでしても、救われないこともあるでしょう。救いは聖霊さまの働きですから、私たちが苦労をしても、その結果が現れないこともあります。そうしたら、どうしますか?  祈りでしょうね。伝道している人々が、救われるために祈るでしょう。ということは、あなた自身が祈りの人になるでしょうね。

  伝道するためには、お金がかかります。行かねばならないかもしれません。お金を出してやる必要があるかもしれません。教会の存在は大きいですね。そうすると、献金の大切さがわかります。ですから、献げるようにもされるのです。日本の人達は、初詣に一回、100円玉一個、痛みを感じないお賽銭を投げますが、あれは献金ではありません。ああいう献金態度で、「人が救われるように」などとは、とても言えないでしょう。ですから、よく伝道する人は、よく献げる人にもなるでしょう。

 礼拝出席はどうでしょう? 「是非教会に行ってください」と言ったとき、「私、初めてですから、あなたも行ってくれますね」と、その未信者が言ったらどうしますか? 「いやあ、私は最近、教会にはご無沙汰しておりますので、自分で行ってくださいな」とは言えないでしょう。つまり伝道する人は、毎週熱心に教会にも通う人です。

  教会で、さまざまなご奉仕をする時だって、「これがあの人の救いにつながる」と分かっていれば、いやいややるということはありません。

  何故、信ずるのか、それは信じた者が救われるからです。永遠の命を頂けるからです。何故伝えるのか、それはそれが喜ばしい主の命令だからです。その主の命令に従う時、伝えた伝道の対象だけでなく、伝えるクリスチャン自身も祝福されるからです。

  もう一度、この「宣教大命令」を、主からの命令だと受け止めて、伝道に励みましょう。