2007年6月10日

「真理の御霊」 ヨハネ16:7−15

6:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

16:8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。

16:9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。

16:10 また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。

16:11 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。

16:12 わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。

16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。

16:14 御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。

16:15 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。

 

   会堂の後ろの壁に、外国人の婦人の写真がかかっておりますが、最早この方を知っている人は、少なくなってきました。この方は、マリー・ジュルゲンセンという方で、日本アッセンブリーの最初の宣教師カールF・ジュルゲンセン師夫妻の娘さんです。日本では、マリヤ先生として知られていました。日本に行ったのが1913年で、12歳の時でした。東京・北区・滝野川にある神召教会を拠点に、1979年まで日本で説教活動をし、帰米してからも日本人を愛して、日本の教会の出来ることを本当に願っておりました。サンホゼでの伝道も、私より前に、このマリヤ先生がなさっていたのです。 カリフォルニアの星教会は、彼女のそういう願いが源になって出来た教会であります。

そのマリヤ先生も、1991年に召されましたが、生前のマリヤ先生を知っている者として言えることは、この方は実にメッセージのシャープな方でした。つまり、「切れる」「鋭い」という感じでした。そのマリヤ先生が得意なメッセージの一つが、「聖霊のお話」でした。まあ、ペンテコステ派の宣教師としては当然でしょう。ですから、人々は「聖霊のお話のマリヤ先生」と話たものです。

今日でこそ聖霊のお話は、私たちペンテコステ派ばかりでなく、広く福音派の間では、よく聞くようになりました。しかし、ある教派では、今でも洗礼式などや、礼拝などの祝祷の時以外は、殆ど使われることも、教えられることもないところもあるようです。

聾唖者のための日本の手話は、誰が作ったのか分かりませんが、「聖霊」というのは、「聖」、つまり「聖い」と、「霊」というふうに分けて、伝えます。「聖」の部分はともかくですが、その「霊」の部分は、何か綿菓子のような、ホンワカした手まねをします。もっとも、手話ですから、色々事情があるので、これはいたし方ありませんが、聖霊は、三位一体神の第三位格であり、はっきりとした人格であります。天のお父様、イエス様と呼ぶように、人格としての聖霊を、ただ聖霊と呼ぶのではなく、「聖霊さま」という風に、「さま」という人称をつけて、お呼びすることは妥当だと思います。

 聖霊さまは私たちを、あらゆる真理に導いてくださいます。ですからまず、いつでも、聖霊さまに従うことが、祝福につながるということを覚えましょう。

 今朝のテキストは、イエス様が十字架にお架かりになる前に、弟子達に語られたところです。三年半にわたって生活を共にした弟子達ですが、彼らにとって、イエス様が神であるという真理を理解することはなかなか難しかったようです。この少し前の14章で、ピリポはイエス様に、「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します(14:8)」と、言っています。その時イエス様は、「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです(14:9)」と言われました。今日私たちが、このピリポの言葉から、「なんと間の抜けた弟子だろう」と言うことは出来ません。今日、私たちがイエス様を神と信じることが出来たのは、聖霊様の功績であって、私たち人間サイドの力ではないからです。1コリント12:3には、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません」とあります。ここコリント書に記されている「主」は、イエス様こそ、私たちの罪からの救い主という意味であって、単なる御主人さまとか、偉い先生といった感じではないのです。テキストには、「すべての真理に導き入れます(v.13)」とありますが、この中心の真理は、言うまでもなく、「イエス様が主」という真理であります。

イエス様は、「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わしますv.7)」と言われました。主は十字架でお死になって、さらに死んだのみならず、三日目に死人のうちより復活し、40日間にわたって弟子達に、お現れになり、ご自分が神であることを証明なさいました。考えても見てください、イエスさまが十字架にお架かりになって死なれたことは、キリスト教徒ではない人でも証言しています。十字架は事実であります。そういう風にして死なれたイエス様が、復活なさったということは、聖書を読めば、多くのクリスチャン達が証言しています。彼が神以外の一体何でしょう。

しかしこれが、本当の意味で弟子達の中で確信となったのは、ペンテコステ(五旬節)の時からです。イエス様が昇天なさる時ですら、弟子達は、「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか(使徒1:6)」などとトンチンカンなことを言っています。これは明らかに、地上のイスラエルの再興を期待しての言葉ですね。

私たちが今信じているイエス様を、同じイエス様として彼らが捉えることが出来たのは、主が天にお帰りになり、聖霊さまがお降りになってからと言えるでしょう。ですから聖霊様が降りなったことは、幸いなことだったのです。

ですから、今は聖霊様の時代です。聖霊様が、それまでは頑なに、拒んでいた人にも、その人の霊に、「信じた方がいいよ」と働きかけてくださいます。すると、それまでどれだけ頑なであっても、信じるようにされていくのです。そうやって人は、キリスト者になっていきます。ある人は、案外なんの抵抗もなく、信じますが、ある人は、散々抵抗した挙げ句、信じます。しかし、どちらにしても、聖霊さまのお働きで、人々はクリスチャンになるのですね。

1コリント2:4-9には、次のようなパウロの言葉がみられます。「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです」。

イエス様が十字架に架かってお死になったのは、私たちの罪のためであったことは、私たちには、御霊さまのお働きで分かるようにされたのです。ですから、真理の御霊さまがおいでになったことは、喜ばしいことなのです。

さらに真理の御霊は、私達をイエス・キリストという真理に導くのみならず、私たちをキリストにあって、真理の生活をさせるように導いて下さいます。これが御霊様の素晴らしい、第二の点です。

私たちはイエス様を信じて、キリスト者とされましたが、私たちは地上の生涯を全うするまで、キリストに忠実な者でなければなりません。しばしば私たちの日常生活では、「どうしようか?」と思うことがあります。そんな時には、聖霊様に尋ねてみることです。聖霊さまに尋ねることは、結局祈るということでもありますね。

「聖霊さま、今、これをしようと思いますが、これはイエス様を喜ばすことでしょうか?」と。聖霊さまは、私たちの全生活に関わってくださいますから、「それは、やってもいいだろう」とか、「いいや、それは止めたほうがいい」と指導して下さるでしょう。覚えておかねばならないのは、聖霊様は、聖書の原則を超えては働かれないというとです。ですから、聖書をしっかり読み、聖書を良く知っていることは、聖霊様により自由に、正しく働いていただく秘訣です。ただ知っているだけでもダメ、聖書を勉強しても聖霊の導きを求めて祈らないもだめです。そうやって、聖書を学びつつ祈ってみて、「どうも、これをすることは、主を悲しませるのではないか」という恐れを感じるなら、止めたほうがいいでしょう。一方、それは主のためになると分かっているのだけれども、祈ってみても、「どうもイマイチ確信がもてない」という場合は、特に聖霊様の語り掛けがなくとも、自分が思ったとおりに進んでください。そういう聖霊様の導き方もあるでしょう。主の御霊の導きでないのなら、聖霊様は、途中でも分からせてくださって、「ストップ」をかけられるでしょう。

私はミズーリでの神学校を終えた時、ここカリフォルニアで伝道することと、日本に戻ることと、二つの道がありました。どちらも主の御用でした。祈りましたが特にしようとした時、「こうせよ」という導きは感じませんでした。それで私は、聖書を読みました。そると「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである(口語訳ピリピ2:13)」に当りました。私は自分が、「アメリカに残りたい」と思ったことは、もしかしたら肉の思いかと思っていましたが、この御言葉で「神がよしとされる」と思いました。主のよしとされることなら、特に何か問題がなければ、主は何でもOKです。どんどんやったらいいのです。

思い出してください、パウロがアジアで、御言葉を語ることを聖霊によって禁じられたことを、またビテニヤに行こうとした時のことを。御言葉を語ることは、主の御心にかなっているに違いありません。彼はそうしようとしたのです。しかし、主は留められました。パウロに対する主のみ心は、彼がアジアではなく、今日でいうヨーロッパに福音を伝えることだったからです。

しかし、多くの場合、皆さん方に主は、「御言葉を語ることを禁じる」などとは言われないでしょう。パウロが、聖霊様に導かれて動いたので、福音は、ヨーロッパに(当時の感覚では、世界中に)伝えられたのです。皆さん方が、もっと聖霊さまに導かれて動くなら、もっと顕著な主の栄光を見るでありましょう。

使徒の働きを読むと、まさに使徒たちは、聖霊さまの思うがままに動いている様子が分かります。

パウロは1テサロニケ5:16-22 で次のように言います。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはなりません。預言をないがしろにしてはいけません。すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。悪はどんな悪でも避けなさい」。

ここには、「御霊を消してはなりません」とあります。これは、個人から御霊が消える可能性があることを示唆しています。「信じた人は、御霊を持っているので、もう決して御霊が消えることはない」と主張する人達もおります。しかし聖書の中には、一度信じた人でも、信仰の脱落者になった人の記録があります。今日でも、一度は信仰を持って、幸いな教会生活をしていた人でも、ある時から信仰の道を外れて、全く世の中の人と同じようになって、堕落する人もいるのです。パウロはそうならないために、いつも喜ぶこと、絶えず祈ること、すべてのことに感謝することを教えています。また御霊さまの導きに従うことを挙げています。御霊さまの働きに逆らう人からは、御霊さまが消えてしまいます。あのアナニヤとサッピラは、大胆にも御霊さまを試みて、死にました。(使徒5章)

御霊さまの導きということで、きわめて直感的な人を見かけます。ヤマカン、直感は、非常にその基盤は弱い場合があります。先にも申しましましたが、キリスト者が、御霊様の導きを求める場合、聖書という物差しを標準にすべきです。

「私は、あの方のお妾さんとして生きるように導かれました」とか、「あの飛行機を爆破するのが主の導きである」などというのは、決して聖霊様の導きではないでしょう。世の中には邪悪な霊も、うようよしています。ですからパウロは、「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。悪はどんな悪でも避けなさい」と言うのです。

基本的には、「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい1ヨハネ4:1-2)」を覚えておくといいでしょう。

私は、前に2テモテ3:16-17を暗唱するようにお勧めしました。そこに「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」とあります。聖書は、神の霊感によっていて、聖霊様の源泉です。この聖書を通して、あるいはこの聖書の範囲内で、聖霊さまは働かれるのです。ですから、祈って聖霊様の導きを求めると同時に、聖書を読むことも大切なのであります。

イエス様は、もうすぐ十字架にお架かりになる時に、弟子達に助け主(聖霊様)の来られることについても語られました。それが真理の御霊様であります。真理の御霊様によって、イエス・キリストを主として受け入れ、生活のあらゆる部分に、真理の御霊さまの導きを求めましょう。あなたの生活は、間違いのない、素晴らしい、輝かしいものになるでしょう。

祈ります。