2007年6月10日
遺言を書こう
日本では、遺言を書くということは、非常に限られていますが、アメリカでは殆ど常識です。例えば遺産相続の
場合など、日本では法定相続分があって、親のサイドからみるなら、やりたくない子供にも遺産が入ることがありま
す。私の育った家は田舎ですから、親の財産と言っても、その親も、そのまた親から受け継いだ財産ですから、大
きなことは言えませんが、サラリーマン諸氏の場合は、苦労して貯金して買ったマイホームの場合が殆どですから、
まさに全部の財産が、その人一代の汗と苦労の結晶でしょう。その財産が、例えば親を親とも思わないような親不幸
のバカ息子や、「ジジーにババー、早くくたばれ」と言うようなバカ娘にでも行くと言うのが日本のシステムです。この
日本の制度は考え物だと思います。
しかし今日、私が「遺言を書こう」と言うのは、別の観点からです。それはクリスチャンの葬儀という観点からで
す。アメリカの場合は、お葬式と言う場合、その人がクリスチャンであろうとなかろうと、キリスト教会式、クリスチャン
式でやることは、非常に普通です。ところが、日本の場合は、その人が熱心なクリスチャンであろうとも、取り巻きが
クリスチャンでなければ、異教の習慣で行われることが、往々にしてあるのです。異教の影響下で生きるクリスチャ
ンの中には、自分がクリスチャンであることすら言えない人もいるでしょう。すると、もしそういうクリスチャンが、万が
一死んだとすると、取り巻きの人たちは、「教会にも行っていたこともあるらしいね。でもまあ、我が家は仏教だから、
お寺さんに義理が立たないので、お寺でお願いしましょう」ということになって、仏教式のお葬式になってしまうでしょ
う。クリスチャンの友達が、あるいは教会の牧師が、「この方はクリスチャンでしたから」とどれだけ叫んでも、そんな
叫びは殆ど役に立たないでしょう。未信者である配偶者や、子供、あるいは親の意見のほうが、その故人の牧師や
、クリスチャンの友人より、絶対に強いのです。
日本の場合、家族の中で、自分が一人クリスチャンという人が、まだかなり多いと思います。そういう場合、あな
たがどれだけ熱心なクリスチャンであっても、周りがあなたの立場を理解してくれなければ、死という人生一番の伝
道の好機を、みすみす異教の習慣で、逃すことになってしまうのです。
実は、私はイエス様を信じたのが19歳でして、当時私はそのことを一番恐れました。当時私は愛知県に住んで
いまして、愛知県と言う県は、あの頃、交通事故死ナンバー1の県でした。もしこちらの不注意でなくとも、交通事故
か何かで死んだら、「おそらく、このままでは仏教式のお葬式になるだろうな」と思いました。私の田舎は古い家で、
大きな仏壇にはものすごくたくさんの位牌があり、お寺にも非常にコミットしている家でした。こういう地方とか、こうい
う家の場合ですと、長男である私が仮に牧師になってもまだ独身なら、お寺で葬式を出されてしまう可能性があります。
私は、洗礼を受けてしばらくして、そのことに気付きましたから、ただちに遺言を書きました。遺言は、確かに財
産のある人は、遺言を書いてきちんとしておくと、あとで遺産相続の時に、もめることが少ないと思いますが、今、重
ねて強調したいのは、財産のことではなく、葬式に関してです。
内容は、必ずキリスト教式でやること。葬儀をお任せするのは、「○○牧師先生にお願いします」と、きちんとさ
だめておくこと。分骨せず、遺骨はすべてをキリスト教墓地に埋葬すること。(分骨すると、お寺はお寺で、勝手に別
に葬式を出すことがある。) 葬式の時に読んでもらう聖書の個所、歌ってもらう賛美。・・・・・ そういったことです。
日付を書いて、署名し、ハンコを押しておくのです。最近はやりのワープロ書きより、そんなに長い文ではないですか
ら、自筆が一番いいでしょう。私の場合は、ずっとそれを聖書にはさんで持っていました。塩狩峠の長野さんの場合、
毎年遺言は書き改められていたようです。常識的には日付が新しいものが有効です。それを、出席している教会
の牧師先生にわたしておくのは妥当でしょう。信仰のない家族に渡すのは、考え物です。
こうして私の場合、東京の神学校に入っている間も、持っておりました。卒業して結婚するまで持っておりました
。結婚したあとは、私に万が一のことがおこった場合、妻がまさか親の意向にそってお寺で葬式をするとは思わな
かったので、捨てたと思います。今は、妻だけでなく、子供達もみなキリスト者ですから、葬儀に関しては、遺言は書
いておりません。ただ先日娘には、「ダッドが死んだら、サンホゼに埋葬してほしい」とだけ申しておきました。宣教者
は宣教地の土になるのが、宣教者の栄光だと思っているからです。
葬儀は、キリスト者にとってはもっともパワフルな伝道の機会です。だいいち、葬儀には自分がクリスチャンで
はないからと言って、家族が来ないはずがありません。お寺の葬儀は、読教が流れ、チーンと鐘がなり、すすり泣き
が聞こえ、実にしめっぽい、寂しいものです。しかしキリスト教のお葬式は、復活の希望に満ちています。悲しみの向
こうに希望と栄光が本当に見えます。復活なさったイエス様と同じように、死んでも生きるという希望に満ちています。
そして牧師の説教は、意味の分からない話ではありません。だれにでも分かる言葉です。葬儀に出た人は、普通必
ず自分の死について考えるでしょう。クリスチャンの葬儀に出た人は、その信仰の力強さに触れるでしょう。
クリスチャンとしての証詞は、葬儀でよく現れます。あなたがもし、クリスチャンの配偶者がいないなら、子供に
信仰者がいないなら、親がクリスチャンではないなら、葬式のための遺言を書いておきましょう。そして、さらに勇気
があるなら、未信者の配偶者、親、子供に、「私はキリスト者です。もし私にもしものことが会った場合は、必ずキリス
ト教会で、お葬式をしてくださいね」と頼んでおくことです。彼らは、「ウン、ウン」と、いい加減に聞いていることもある
かもしれません。しかし万一のことが、本当に起こった場合、その遺言を見せるなら、その信仰者の意志の固さに、
シャッポを脱ぐでしょう。素晴らしい証詞になります。
自分の葬儀のための、遺言を書きましょう。