2007年6月17日
20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
20:30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。
「まぐれ」とか、「ヤマカン」とか、ということも、時にはあるかも知れませんが、キリスト教信仰でいう信仰とは、まるで実体のない、あるいは現代の常識では、考えられないようなことを信じているのではありません。むしろ信じない人のほうがおかしいと、少なくとも私は考えています。
日本では建設工事を始める時には、大体地神祭をいたします。私がまだ田舎に居た時の話です。その頃、私はある建設会社にアルバイトに行っておりました。あるところで普請が始まるというので、やはり地神祭がありました。神主さんは、普段はお百姓をやっていて、片手間的に神主さんをやっておられたおじいさんでした。その方に、私が行っておりました建設会社の親方が地神祭をお願いしたのです。事前の建設会社の人達の会話からして、かなりいい加減でした。
「あのジイサンに、いくら包もうか?」
「三千円でどうだ」
「バカな、たかが三十分のお祓いで、三千円は高かろうが」
「しかし、千円や二千円で、工事の安全がはかれるかょー」
「冗談じゃねぇぜ、どこの命(みこと)にお払いをするのか知らねぇが、ああいうものは、慣わしだからやるだけなんだョ。あの爺さんには、三千円もやりゃ十分だ」と言った具合でした。
やがて、ちょっとくたびれた装束をつけたそのおじいさんの神主さんがやって来て、榊に紙で作ったさがりをくっつけて、それを杭に巻きつけて言いました、「皆さん、ええですかな、これは神さまですからな」と。 これは個人的な見解ですが、あの時から特に、神さまの「み」にアクセントをつける発音は、邪教の神だと言う風に強く思いました。キリスト教の「神さま」は、「か」にアクセントをつけた発音をします。
日本には「鰯の頭も信心から」という諺があります。けれども科学の最先端を行っていると言う方でも、変な物を拝んでいることがあります。キリスト教信仰は、信じるに値するから信じるのです。今朝は、そのことを知って、自分たちの信仰に、もっと自信を持ちましょう。まだイエス様を信じていない方は、是非考えてください。何故イエス様が信じるに足る方かを。
ここには、極めて今日にもいそうな、すなわち何故信じないかというタイプの人が出てまいります。トマスですね。トマスは、他の弟子達が、復活なさたイエス様に出会ったと言っても、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言いました。見なければ信じない・・・・・果たしてこの態度は、私たちの日常生活から考えて妥当でしょうか? ここに出てくるトマス一人が特に疑い深いように考えるのは間違いです。他のお弟子さん達でも、見たので信じただけであって、見ないで信じた人はいなかったのです。
この世の中で、見なければ信じないなどという理屈は、おかしいのです。例えば刑事裁判では、裁判官も陪審員も、だれも犯行の様子を見てはいないでしょう。けれども裏づけ捜査のほか、証人の証言は陪審員や裁判官の大きな確信になります。この世の裁判とはそういうものです。見ていないから判断が下せないということだったら、多くの事件が闇に消えてしまいます。
しかしトマスの言葉は、キリスト教信仰を考えるとき、人々がよくとる考えのひとつです。私たちが伝道するとき、「それではその神さまとやらを見せてみなさい、そうしたら信じてやろう」と言う人がおります。見える形で、神なるイエス様は、この世に現れてくださいました。そしてご自身が神である証拠を、様々な形で示してくださいました。悪霊を追い出し、盲人の目を開き、中風の人を立たせ、ツァラアトの人を聖め、死人を生き返らせ、自然を支配し、湖の上さえも歩かれました。一体、「見せろ」と言う人には、何を見せたら神がおられると信じられるのでしょうか?
「神など、結局のところいないのさ」と言う人もおりますが、それならどうして、あの建設会社の親方ではありませんが、そんな地神祭などするのでしょう。人々は、目には見えないけれども、人間の理性を超えたところに、超人間的な誰かがおられることを、あたかも感じているかのようです。
このテキストで弟子達が、実際に見たお方は、復活されたイエスさまです。復活というのは、死人が生き返るということですが、これは甦生ではありません。世の中には、「心肺停止」となってからでも甦生することがあります。
昨年私たち夫婦がはまったテレビ番組に、「医龍」というのがあります。あの中では、「心肺停止」という言葉がよく出てきました。私たちの教会には、お医者さんがいましたので、この番組に関しては専門的な話もうかがえたので、本当に医療現場の様子がわかって、随分楽しみました。最近の医療技術では、心肺停止などと言うのは、必ずしも死を意味しないようです。一昔前なら、心臓が止まれば、それでおしまいだったのですね。しかし、あのドラマを見ていますと、テレビ・ドラマですから、どの程度信頼できるかは別にして、甦生することもあるということがわかります。けれども、甦生は復活ではありません。新約聖書には、ヤイロの娘の場合、ナインの子供の場合、マルタ・マリヤの兄弟ラザロの場合と、死んだ人が生き返った記事があります。ことにラザロの場合は、死んで四日も経っており、遺体がくさり始めていたのですから、これが甦生すると言うのは奇跡です。しかし、このラザロも、聖書には書いてありませんが、それから時が経って死んだのでありましょう。
キリスト教で言う、復活は死人のうちから、生き返って、それからはもう死なないという意味です。それはイエス様が、最初です。何故なら、彼は神だからそれが出来たのです。イエス様の場合は、40日間もあちこちで、様々な人々にお現れになりました。そして天にお帰りになりました。キリスト教以外の宗教は、すべてがその創始者は亡くなりました。ただキリスト教の創始者だけが、死から復活して、今も生きておられるのです。彼だけが神だからです。
それは証言を通して、分かるのですね。イエス様は「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」と言われました。弟子たちは、トマスに「私たちは主を見た(v25)」と証言しているのです。勿論、証人の資格というものがあるでしょう。裁判などでも、非常に重要な証言であっても、その証人の資格に問題がある場合は、証言として採用できない場合があります。証人の資格では、その人がならず者で、これまでにも犯罪を積み重ねてきた人とか、ウソツキとしての評判の人、あるいはそういう罪で有罪になった人などは、その資格が疑問視されるでしょう。お金持ちかどうか、学歴があるかどうかより、その品性が考慮されるでしょう。
お弟子さんたちは普通の善良な市民です。マタイは税金取りで、人々から嫌われていたでしょうが、その儲かる仕事を捨てて、イエス様に従って三年を経ております。十分に資格を回復しています。ユダは裏切っておりますから、証言しておりません。
彼らの証言が、どれ位真正かという点ですが、それが真実だということについては、命をかけましょう、というほどでしたし、弟子たちの多くは、その証言のために殉教しているのです。
デタラメの証言は、長続きしないものです。「イエス様は十字架に架かって、お死になった。しかし三日目に死人のうちより復活なさった」という証言は、弟子たちを通して、その聖書を通して、今日に至るまで、証言され続けてきているのです。そのために、どれだけ多くのクリスチャンたちの血が流されていることでしょう。人が、何と言おうと、それは真実です。「見ずに信じる者は幸いです」
それを信じることが何故そう大切なのでしょう。
あるブログを見ておりましたら、「アムウェイ」という商品のことが書いてありました。あの販売方法とか、商品に対する考えは一種の信仰みたいですね。洗剤の品質とかが語られておりました。そういうセールスの言葉を「信じて」、そういう商品を買う、…・この意味での、「信じる」というのと、イエス様を「信じる」の「信じる」は、レベルが違いすぎるのです。「アムウェイの販売方法と、その商品は信じない」と言って、他のブランドの商品を使ったところで、我々の人生には、さして問題になるわけではありません。つまり「アムウェイ」を信じなくても問題はないのです。
今回日本に参りました時、新谷先生の「病気にならない健康法」の続編が出ていたので買ってきました。この最初の本は、ミリオン・セラーだったようです。新谷先生は、病気にならないために、ミラクル・エンザイムを増やすような食生活を勧めています。我々のような年代になりますと、集まればまず健康に対する話題でもちきりです。新谷先生の食生活に関する話に説得力があるのは、そういう生活で、先生自身も、もう40年も医者にかかったことがないとか、先生の患者にはダスティン・ホフマンなど有名人がいて、日本の中曽根元首相なども、彼の健康法のことを推奨しているということからです。つまりそういう証言を信じるのですね。新谷先生の本に関して言うなら、「アムウェイ」のケースなどとは比較にならないほど、「信じるか」「信じないか」の差は大きいです。健康で長生きできるか、病気になって短命になるかにつながるからです。
しかし確かに新谷先生の話のように、「酒・タバコはやめなさい」、「よい水を飲みなさい」などという話を信じて実践すれば、先生の言われるミラクル・エンザイムを増やして、医者にもかかることなく、寿命を長くするかもしれません。実は私たちもかなり、この本の信者ですが…・・。けれども、そういう風にかなり健康に気を遣って長生きする人でも、それとは反対に不養生で、暴飲暴食、酒。タバコ、夜更かしマージャン、いわゆる運動せず…で短命の人でも、いつかは死ぬという点では同じです。
テキストは「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」と告げます。
今朝のテキストでの、この説教の鍵句は、「信じる」と、「いのち」です。まずヨハネがここで、「いのち」と言うのは、3:16 にある、「永遠のいのち」の意味であります。それは復活なさったイエス様の持っておられるようないのちでありあります。もう苦しみ、痛み、悩み、死の悲しみはありません。確かにイエス様は、その前触れのように、この世の肉のいのちも癒してくださいます。新約聖書には、そういう記録が一杯あります。ですからこの世の病の癒しのために、主に期待数することは、よいことです。けれども、この肉体のいのちには変えられない、永遠のいのちを、皆さんに持ってほしいという確信が、復活の証人として、このヨハネにこの福音書を書かせているのです。
この「いのち」があなたには必要です。それには、十字架に架かってお死にになったけれども、三日目に復活なさった主が多くの人々に勧められたように、「信じる」ことです。これ以外にありません。歴史を経て多くの証人たちが、イエス様の復活は真実だと証言しているではありませんか。彼は神です。彼が永遠のいのちを、私たちに授けてくださる鍵の方です。
信じないものにならないで、信じるものになることです。それが、あなたの永遠のいのちにつながるからです。
祈りましょう。