2007年6月24日
11:6
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
11:7
信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。
11:8
信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
11:9
信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
11:10
彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。
11:11
信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
11:12
そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天に星のように、また海ベの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。
11:13
これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
11:14
彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
11:15
もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
11:16
しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。
先週は私たちにとっては、非常に慌しい週でした。月曜から水曜まで、メキシコへ行きました。4月下旬に召されたパブロの墓参をし、そこで墓前記念礼拝をしました。戻ってきたら、留守電に何度もメッセージが入っていて、シーサイドに住んでいたヨシコさんという方が召されて金曜にメモリアル・サービスがあるという連絡でした。それで私たちは、行って来ました。シーサイドというのは、ここから一時間ちょっとの太平洋に面した町で、そこにはたくさんのワー・ブライドが住んでいます。1986年か94年位まで、私たちは毎週、この婦人達と聖書の集会をしていました。
今回そのメモリアル・サービスに行って思い出したのですが、あそこの婦人たちがつくるフードは、ウルトラ豪勢で、今回もものすごいランチ(?)が振舞われました。もちろん、そういう時にはなかなか普段には顔を見せないような人もやって来ます。
何故こういう話をするかと申しますと、あの当時、サンホゼからシーサイドの集会に行く者の大半は学生さんで、多い時は20人以上いたと思います。そのうちの何人かはイエス様を求めて…・・、と言うよりその食事を目当てに行く人達だった感じがします。まあ、どんな動機で、教会においでになるのか、…・それは人それぞれだと思いますし、どんなきっかけでもかまいませんが、牧師としての私の願いは、人々がイエス様に触れて『救い』を得て欲しいということだけでなく、さらにその信仰を成長させてほしいということです。
イエス様を主と告白して洗礼を受ける・・・というところまでは日本人でも、アメリカにいる日本人の場合は、周りから来るプレッシャーが日本にいる日本人よりは低いので、比較的簡単に出来ますが、その信仰を成長させることに目を向けることが大切です。
アメリカの教会の場合、フェローシップや何か、信仰以外のものに関心があって、信仰の成長ということへの関心が稀薄な教会出席者がいるようにおもいます。その信仰をさらに発展させ、信仰者として成長してほしいのです。
今朝は、またヘブル書11章から、信仰ということを学んで主を崇めたいと思います。
信仰は神に期待し、神に導かれることです。ですから、この世的に考えたら、不利で不思議に見える信仰ですが、その信仰は人を、神の良しとされる方向に進ませます。ですからその導きに従って、そういう風に進むのが信仰の成長です。神は、それをあなたに望んでおられるのです。
まず覚えて頂きたいことは、信仰によって歩むということは、常識や計算では計れない不思議さがあるということです。
テキストは、「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」と言います。
この話は、古のノアとかアブラハムの時代ならともかく、現代では不可能だということではないのです。このヘブル書13:8
には有名な「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです」という御言葉がありますが、もしあなたに、「イエス・キリストとは神である」という信仰告白した時の信仰があるなら、「神は、きのうも、今日も、いつまでも変わらないお方である」と理解できるはずです。ノアに働かれた神も、アブラハムに働かれた神も、このヘブル書にはたくさんの信仰の先輩の話が出ておりますが、それらの先輩に働かれた神は、今あなたにも働かれうるのです。ノアの時代にも、アブラハムの時代にも、またどの時代にも信仰のない人達、足りない人たちがおりました。そういう人たちは、時として、その足りない信仰の故に、フェイタルなエラーを犯したのです。ですから、信仰を持つだけでなく、その信仰を磨いて、大きくするということは、とても大切なのです。
ノアのことは、創世記6−8章に詳しく出ています。あの時代に、洪水が来るというので箱舟を作るなどということは、クレージーのような考えだったのです。しかし、ノアはそれをいたしました。主がそう導かれたのですね。アブラハムにしても、導かれて「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行」ったのです。
私どもが今から22年前、サンホゼに来た時も、同じです。アメリカくんだりまで来て、また別の神学校をを卒業してから、二人の小さな子供がある身で、殆ど給料も出ない開拓伝道に挺身するなどということは、アメリカの常識から考えたら異常ですね。最近キャロルとの会話で思ったのですが、アメリカではこの種の、見た目にはあまり成果が上がらないミニストリーをやっていますと、数年でその牧師は辞めるそうです。「私は家族に対して責任があるから」と言えば、まず大体の人は、納得するそうです。私たちの若い時代には、「特攻隊」とか、「落下傘部隊」とかで呼ばれた開拓伝道のパターンは、もうやる人は少ないと思います。しかし、その「特攻隊」、「落下傘部隊」がいなければ、アメリカの最初の日系アッセンブリーはなかったのです。実際、私もサンホゼに来て、生活がきつくなったので、教会を閉鎖してどこかに去った牧師を、何人か知っています。私たちが、それにも拘らずこれを続けてきたのは、そしてこれからも続けるのは、「主の導きである」という信仰からであります。また、「主が必ず、栄光を見させてくださる」という信仰からであります。
あなたには、何かこれをしようと言うときに、そういう主の導きを求める信仰、あるいは主の導きに聞く信仰がおありですか。
大体について言えることは、信仰の歩みとか、信仰によって導かれる歩みと言うのは、人の目、・・・・・・(それはあなた自身の目かもしれません。)からみたら、不利で、不思議で、不安が伴いますね。
ノアでも、人々のあざけり、嘲笑を受けたでしょう。アブラハムも、複雑な気持ちではなかったと思うのです。
イエス様を信じて、洗礼を受ける時を思い出してください。不安が伴った人が大半だと思います。「日本の人は、たいていが仏教だから、私がこんなことしていいのだろうか」と思います。「家族はどうおもうだろうか」とか、日本の、ことに田舎では、「ホー、キリストさんになるのですか?」という怪訝な目でみられることが多いでしょうから、信仰を持って踏み出すことには非常に勇気がいります。アメリカでは、そういう空気が少ないので、信仰に入るのが簡単なのでしょう。
信仰の成長とは、あらゆる点で主の導きを認め、人の目には不利で、不思議で、不安が伴うあゆみですが、主に信頼して進む歩みです。
パウロでも、もし救われるというだけなら、ダマスコ途上で主に出会って、信じて、洗礼を受けたのですから(使徒9章)、外部の者の目から見たら、あとはおとなしく一市民として生きればよかったように見えます。それを聖霊さまの導きのままに、あちこちで伝道したものですから、嫌われ、総督の前に立たされ、ついにはローマにまで行って殉教することになるのです。ただ私は、パウロが救われた後、聖霊様の導きに従わず、伝道しなかったなら、彼自身の『救い』すらなかったのではないかと思います。それは、皆さんにも言えるでしょう。皆さんが救われたのは、主のなんらかの計画のうちにあります。あなたの信仰を成長させ、神の計画のうちに用いようとなさっているにちがいありません。それを、聖霊様の導きに反して、それをとどめると祝福を失うことにもなるでしょう。
そこで二番目に覚えていただきたいのは、主に期待し、導かれることを願う思い、すなわち信仰の成長を願う思いを持てということです。
ノアが箱舟を作るときでも、アブラハムが出て行く時でも、どれくらい彼らがその主の導きに対して積極的であったかは分かりませんが、人の目から見たら、不利で、不思議な主の導きを、受け入れる心を持っていたと言う点では、大きな信仰を持っていたと言えるでしょう。それは、こういう人たちは、「堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたから」でしょう。それは世の誉れや、楽しみではありません。天の不朽の栄光です。
あなたは、どの程度主に期待し、どの程度主に導かれたいと願いますか?私は、この時代でも、主はあらゆる機会に、救われた者の信仰の成長を願って導かれると信じます。
先にも話しましたが、先週はシーサイドで、私たちもよく知っているヨシコさんのお葬式があって行きました。そのヨシコさんは、最後は二人部屋のナーシング・ケア・ホームにいたそうです。ところが、シーサイドでは知られたケイディーさんという方がヨシコさんを、訪問に行くと、そこにもう一人の日本人がいたそうです。彼女は、その部屋に入ってすぐに、・・・・
「あなた日本人? クリスチャンですか?」
「いいえ、仏教です」
「ええッ、イエス様はあなたの罪のために、十字架に架かってくださった救い主ですよ。信じなさい。あなたも永遠の命がいただけますよ」
大体、ナーシング・ケア・ホームで、初めて会った人に、こんなに大胆に伝道できる人が、どれ位いるでしょう? 結末から申しますと、この婦人はイエス様を受け入れたそうです。そしてケイディーさんは、「ヨシコがあそこに入ったので、ヨシコを用いて、主は、もう一人の人を救ってくださった」と主を崇めておりました。
今まで、まだ救われていない人に出会った時、「あの人が、イエス様信じてくれたらいいなあ」と思ったことはありませんか?「ない」と言う方は、そういう思いを持てるように、救霊に対する飢え渇きを求めるべきです。「アアー、そう言われてみればあります」という方は、その時、どうしたかを考えてください。「でも、あの人に、伝道だなんて・・・・私出来ないわ」とか、「でも、あの人は、多分信じないだろう」とか、「今は時ではないと思うわ」とか、大体が、人にウィットネスする時には、サタンが強烈に働きますから、信仰者であっても伝道に対してネガティブになるのです。大体が、先に話したケイディーさんのようには、ならないのですね。そこが信仰の成長のポイントです。
そういうところで、弱さを覚えるなら、使徒2章にある、聖霊のバプテスマを求めましょう。
「信仰の成長」というのは、あなたのキリスト者としての成長のために、直接伝道だけでなく、聖霊様は、あなたの生活のあらゆる部分で導かれます。献金でもそうです。収入の十分の一を献げることは、勇気が要ります。特に日本のように、一年に一度初詣の時に、百円献げておしまいという国民にとっては、収入の十分の一だなんて、気が遠くなる額に思えます。しかし、あなたの周りにいるクリスチャン家庭で、祝福されているように見えるクリスチャン家庭は、まず忠実なタイザー(什一献金者)です。人の目ではなく、主の導きに従い、期待するからです。とりあえず、これまで10ドル献げていたのなら、20ドル献げることが出来るように祈ってみましょう。もしかしたら、「スタバに行く回数を減らせばいいのだ」と気付かせられるかもしれません。無駄な買物をしないようになるかもしれません。タバコが止められない人は、口元から空しく煙となって消えていく、タバコをやめたらいいのだ、と気づかされるかもしれません。あなたの信仰成長のために、主が導いてくださいます。
5分しか祈れない人は、10分祈れるように、願ってください。断食が出来ない人は、とりあえず一回断食して、その時、その時間を聖別して祈ってみましょう。暗唱聖句をやっていない人は、是非覚えましょう。
こういう風に、「自分もやってみよう」と、信仰の成長を願ってみましょう。
最後に覚えてもらいたいことは、信仰が成長するとどうなるかですが、聖書は「もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました」とあるのです。つまり天国が、保証されるのです。
パウロにしても、最後は殉教したと伝えられていますが、「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです(2テモテ4:7-8)」と言います。あのまま、当時の普通の考えなら、一流学者でエリートだったパウロは、それなりに名誉もあったでしょうに、そういうものを捨てたが故に、もっと素晴らしい天の祝福を得たのです。
貧しい寡婦とか、子供を抱えて苦労するシングル・ペアレント、弱い病人や老人や身障者、学歴もコネもなく万年安月給で働く平社員の人、汗水たらして低賃金で働く肉体労働者、生涯自分の家を持てないアパート暮らしの人、いつにもガタガタの中古車にしか乗れない人、暗い犯罪歴があって、この世では受け入れられなかった人、・・・・この世では、どちらかと言うと低く見られている人達・・・・こういう人たちを、この世の秤で計ることは出来ません。主は、信仰で判断なさいます。こういう人たちが、信仰に目覚め、信仰に生きるなら、主はぐっと引き上げてくださるからです。天国で、誰に会うかが楽しみですね。
あなたが、持っている信仰を、さらに成長する方向に向かわれるように希望します。
祈りましょう。