2007年7月15日

ストレート説教 #3

「堤の一穴」 1サムエル2:12−17

などと書くと、「何のこと?」と思われるかもしれません。この種のものは、説教と言えるかどうか、・・・・とにかくどうであれ、メッセージと言う点では、メッセージでしょう。ただこの種の説教は、初心者向きではないでしょう。ですから、初心者の方は、飛ばしてもらっていいです。

  書かれた説教を読むのは、聞く説教が、聞き損ねて、メッセージの大切な部分が分からなかったと言うことがあるのに比し、メッセージの詳細について確かめられるので、良いとういう利点があります。ただ書かれた説教は、そういう点でよいとしても、語られた説教を聞くよりは、感じ方が弱いだろうと思います。

  これは書かれた説教であって、語られた説教ではありません。この説教は、カリフォルニアの星教会の高壇からは、語られておりませんし、私は、この種の説教を、おそらくどこの高壇からも、語ることはないと思います。

  ただ、書かれた説教ですから、かなりストレートに、お話できます。ですから、とても高壇では話せないような内容も、お伝えできると思います。この説教が、高壇から聞く説教の、何分の一かでも、あなたにとってのインパクトを持ちますように期待します。

『堤の一穴』

2:12 さて、エリの息子たちは、よこしまな者で、主を知らず、

2:13 民にかかわる祭司の定めについてもそうであった。だれかが、いけにえをささげていると、まだ肉を煮ている間に、祭司の子が三又の肉刺しを手にしてやって来て、

2:14 これを、大なべや、かまや、大がまや、なべに突き入れ、肉刺しで取り上げたものをみな、祭司が自分のものとして取っていた。彼らはシロで、そこに来るすべてのイスラエルに、このようにしていた。

2:15 それどころか、人々が脂肪を焼いて煙にしないうちに祭司の子はやって来て、いけにえをささげる人に、「祭司に、その焼く肉を渡しなさい。祭司は煮た肉は受け取りません。生の肉だけです。」と言うので、

2:16 人が、「まず、脂肪をすっかり焼いて煙にし、好きなだけお取りなさい。」と言うと、祭司の子は、「いや、いま渡さなければならない。でなければ、私は力ずくで取る。」と言った。

2:17 このように、子たちの罪は、主の前で非常に大きかった。主へのささげ物を、この人たちが侮ったからである。

  今年の日本は、随分大雨みたいで、各地に洪水被害のニュースを聞きます。私は生まれが美濃は岐阜県です。私の生まれた地方は中濃で、洪水で被害が出たということはありませんでしたが、木曽川、長良川、揖斐川が集まって伊勢湾に流れる南濃は昔から洪水被害で知られていました。薩摩藩士、平田靱負(ひらたゆきえ)という方が、江戸時代にこの地方の治水事業をなさったことは、岐阜県にとっては大変な恩恵であり、私自身も小学校の頃、その話を聞きました。当の薩摩(鹿児島県)では、非常に有名な話で、道徳の時間には必ず取り上げられると聞いています。岐阜県には彼の名を記念した町の名、(現海津市平田町)があります。

 治水の一つはダムを作るとか、木を植えるとか、色々ありますが、その一つに堤防作りがあります。川は上流では谷を流れますから、普通その谷より高い地域にいるなら洪水被害になることはないのですが、下流の平野部を流れる場合は、しばしば川面と人々の住む地面が同じか、時には川面の方が高い場合があります。そして大雨で水かさが増しますと、氾濫するわけです。そのコントロールのために堤防は欠かせません。

 私は日本へ行った時、成田から総武線に乗ることがあります。もしあなたも総武線に乗るチャンスがあったら、東京の江東区あたりに来た時、荒川の水位と、一般住宅のあたりの水位を比べてらんなさい。完全に人々の住む地域の方が低いのです。これを守っているのが堤防です。ところがこの堤防に、小さな穴が開いたらどうなるでしょう。最初は、噴水みたいかも知れません。しかしやがて…・

  平田靱負の事業は、それなりに効果がありましたが、それで完全にその後の木曽三川の氾濫が治まったわけではありません。私たちが結婚した当時にも、氾濫しました。原因は堤防の決壊です。堤防が決壊する時は、最初は小さな水の漏れから始まります。堤防は必死にこらえていますが、やがて押し寄せる濁流に、押し流されて、あっという間に、田畑や住宅が水につかってしまいます。

  テキストは、エリの子供の話です。罪というのはイエス様が十字架に架かる時、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです(ルカ23:34)」と言われましたが、自分のやっていることが分からないのですね。この子たちは、自分が祭司エリの子であるということをいいことにして、立場をわきまえませんでした。

  クリスチャンの子供は、その親の信仰で天国が保障されるのではありません。各人が、信仰を持たねばならないのです。親は、ですから子供の信仰教育に、気を配る必要があります。エリのような祭司でも、子供で苦労をしました。まるでエリが、教育をしていなかったとか、子供に配慮していなかったわけではないでしょう。しかし、どこかに「堤の一穴」がなかったかということです。

  ここでエリの子供たちは、礼拝を軽んじています。何故この祭司の子供が、こういう風になるのでしょう。一つには狎れではないかと思います。私が日本から来た学生さんに教えてもらった慣用句に、「マ、いいっか」と言うのがあります。この「マ、いいっか」は、ほんの一回位なら、「マ、いいっか」ということでしょうが、サタンは巧妙で、その「マ、いいっか」を用いて、「マ、いいっか」が、二回になり、三回になり、やがてその「マ、いいっか」が習慣にすらなるのです。

  ここでエリの子供たちの行為は、決してこの時が初めてには思えません。子供の時に、主を悲しませることをした子供がいたら、必死に教え、それでも効かないならば、熱心に祈り、その子が本当にわかるようになるまで、祈りの手を下ろすべきではありません。

  例えば親が主を礼拝するということに無頓着ですと、「勉強が忙しい時は、礼拝はお休みしなさい」と言う場合があります。確かに礼拝にいかないで、その時間を勉強に充てれば、余計に勉強できるかもしれません。実際、そういうクリスチャンの親を知っています。その方の信仰は、やがて子供にも影響を与え、その子は某有名大を出て、政府の役人になりました。親は鼻高々でした。そこで、私が「今、どこの教会に通っておられますか?」と尋ねると、「いや、あの子は最近は、教会にはご無沙汰しておりまして…・」と苦笑いをなさいました。

  政府の役人になることに価値を覚える人、お金をもうけることに価値を覚える人、色々ですが、信仰を持たなかったら、これは私が繰り返し、繰り返し申していることですが、「信仰がなくては、神に喜ばれることはでき(ヘブル11:6)」ないのです。

  大白座の審判の席では、主から「いおちの書にあなたの名前はありません。あなたは何をやっていたのですか。あれだけパスター・エイブを通して、口すっぱく信仰に励みなさいと私が言ったでしょう。どうして聞かなかったのですか」と言われるでしょう。勿論、この時はもう遅いのです。そして「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれ(黙示録20;15)」るのです。

 堤の一穴について…・・少なくともこと信仰に関しては、穴を開けないほうが懸命です。大体誰でも一流大学と呼ばれるところに行きたいと思うでしょう。大体誰でも、貧乏よりはお金持ちになりたいと思うでしょう。大体だれでも、社会的には出世をしたいと思うでしょう。豊かな暮らしをしたいと思うでしょう。より健康になりたいと願うでしょう。しかし、そういうものは、「絶対」ではないのです。ところがこの「絶対なるもの」のために、人は、しばしば堤の一穴を作るのです。

  江東区と荒川を隔てる堤防は、絶対に穴を開けてはならないのです。仮に小さな穴が開いたとしたら、必死で埋めて、水漏れを止めなければなりません。

 「マ、いいっか」という態度で過ごしていてごらんなさい、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです(ガラテヤ6;7-8)」という聖書の御言葉を、肌で感じる時が来ます。

  あなたがあなた自身の信仰のためにも、あなたの回りにいる人達の信仰のためにも、知らないうちに堤の一穴を作るという油断をしないようにしましょう。