2007年7月1日

ストレート説教 #1

「時間」 ピリピ2:4、出エジプト20:15

などと書くと、「何のこと?」と思われるかもしれません。この種のものは、説教と言えるかどうか、・・・・とにかくどうであれ、メッセージと言う点では、メッセージでしょう。ただこの種の説教は、初心者向きではないでしょう。ですから、初心者の方は、飛ばしてもらっていいです。

  書かれた説教を読むのは、聞く説教が、聞き損ねて、メッセージの大切な部分が分からなかったと言うことがあるのに比し、メッセージの詳細について確かめられるので、良いとういう利点があります。ただ書かれた説教は、そういう点でよいとしても、語られた説教を聞くよりは、感じ方が弱いだろうと思います。

  これは書かれた説教であって、語られた説教ではありません。この説教は、カリフォルニアの星教会の高壇からは、語られておりませんし、私は、この種の説教を、おそらくどこの高壇からも、語ることはないと思います。

  ただ、書かれた説教ですから、かなりストレートに、お話できます。ですから、とても高壇では話せないような内容も、お伝えできると思います。この説教が、高壇から聞く説教の、何分の一かでも、あなたにとってのインパクトを持ちますように期待します。

『時間』

ピリピ2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

出エジプト20:15 盗んではならない。

 私たちが初めてメキシコに行った時、すなわちあれは1993年の2月でしたが、私は通訳のナオミに、サンディエゴで会う時間を告げておきました。ナオミは、メキシカン・アメリカンです。会う約束の時間は確か1時頃だったと思います。ナオミとは、事前に電話では連絡を取っておりましたが、会うのはその時が最初でした。ところが、彼女は時間に来ませんでした。私たちはサンホセから500マイルも離れたサンディエゴに出かけて時間に来ているのに、しかも我々は献金で、応援しようと言っているのに、彼女は遅れました。ところが後で分かったのですが、ナオミはアメリカンの友人ナンシーに、実に気楽に、やって来る車の中で、「今日はジャパニーズの牧師と1時に会う予定だけど、きっと彼らはサンホゼから来るのだし、遅れてくるに違いないわよ。私たちが30分くらい遅れたって、まだ私たちのほうが待たなくちゃならないわ、きっと・・・」と話していたようです。ところが、ナンシーは、「あら、ナオミ、今日会うって言ってたその人、ジャパニーズなの?だめよ、ジャパニーズは、時間に非常に正確なのよ。遅れていっちゃ失礼よ」「エエッ、そうなの本当?・・・」  ナオミは大慌てで、30分くらい遅れてやってきましたが、勿論私たちは待っておりました。ナオミが恐縮がること、恐縮がること。

    私の場合は、普通時間には極めて正確です。私はまず約束した時間は、必ずon time か before time です。ましてや、主にお会いする公同の礼拝など、よっぽどの事故でもない限り、遅れるなどということはありません。よその教会に、ただ会衆の一人として参加する礼拝でも、必ず会堂には必ず10分くらいまえには座っております。ましてやこのナオミのケースではありませんが、自分たちの教会が、他の教会からの助けを受けると言う場合なら、絶対 before time です。

    約束の時間、決められた時間というのは、みんなが守って、円滑に、気持ちよく進めるのです。アメリカに来てから、アメリカの会衆の中に、礼拝の時間に遅れる方が多いのには、驚きました。勿論、日本の教会にも、時にはそういう人達もおります。ただ私はこの数年、実に多くの日本の教会の礼拝に出ました。そして思うことは、総じて日本の教会のメンバーは、時間に来ているということです。遅れる人の場合、大体はちょっとバツ悪そうに入ってきます。しかし、アメリカで見たそういう方達は、ぜんぜん悪びれる様子もなく、堂々と入って来るばかりか、時には自分が遅れて来ているにもかかわらず、ロビーの所で、やはり遅れてきた人と、長々と立ち話をしている人もおります。それを見た時、「いったいあの人は、なにしに教会に来たのだろう」と思った気持ちにかられました。

    2002年に私たちがこの会堂の献堂式をした時、アメリカ人の牧師にも案内を出しました。そうしたらある宣教師がやってきました。その宣教師ときたら、遅れて来たばかりか、会堂の外で別の牧師と、何かぺらぺらしゃべってばかりで、菊山先生が英語でお話しなさっているときも、ついに会堂には入りませんでした。私には、目障りでしょうがなかった。結局入ってきたのは、最後に記念写真をとる時でした。勿論、この手の宣教師に、サポートしようとは思いません。マナーの問題というか、こういうことが社会倫理の問題だと、捉えていないのでしょう。宣教師になる前に、そういう生活の基本を、学んでからフィールドに出たほうがいいでしょう。

     「さあ、お立ちください。頌栄をもって礼拝を始めましょう」と司会者が言ったとき、会衆はバラバラで、それからザワザワと会衆が集まる礼拝は、真実に礼拝を捧げている者、ことに私どものような説教者には、まったくの虚脱感を与えるものです。私の申し上げているのは、「遅れる」というのが、いわゆる習慣になっている人達についてであります。中は、礼拝前に行くと、多くの人と顔をあわせなければならないので、少し遅れていくとか、終わりも、祝等が終わるか終わらないかのうちに教会を後にするというような人がおります。実はある日系人クリスチャンの、いわゆるアメリカ人教会に行っている方で、そういう人を知っています。何か以前悲しいことが教会であったのかも知れません。そしてそれがまだ癒されていないのでしょう。 こういうのは、習慣ではありません。癒されるなら、また正常に戻るのですね。どんな約束の時でも、遅れるなら、その遅れる理由を考えてみてください、妥当な理由があるかないかを。そして、土曜の晩に徹夜マージャンをやっていたので寝坊してしまったとか、今朝はファウンデーションののりが悪かったので、何度もやり直していたら、いつものバスに乗り遅れてしまったとか、教会への道すがら、早朝にヴィトンのセールをやっていたので、その列に並んで買っていたら遅れちゃったとか、買った新車のディーラーからの納車が十時だったので、それを待っていたので・・・・とか、とか、・・・・ 私のポイント、分かりますか?

    日本では、特にバブルがはじけて、景気が悪かった頃、どこの組織も、組織の建て直しに懸命でした。「士気」という言葉が使われました。すなわち「士気が上がる」とか、「士気に影響する」ということです。もともとは、兵士の元気のことですが、それが転じて、集団で事を行う時の意気込みのことを言います。教会の働きなどというのは、基本的には「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです(マタイ18:20)」とあるように、一人であるはずがありません。必ず集団です。その教会が、生き生きとして前進するかどうかは、会員達全員の主を讃えるという士気にかかっているでしょう。

   礼拝のお祈りをしている時に、バタンとドアを閉める音がすると、ガッカリです。かなり士気に影響します。(普通、お祈りの時などは、入らないものです。明治の教会ですと、遅れてきた人は会堂へは入れず、別の間で、障子ごしに説教を聞かねばならなかったとさえ言われています。)

   パウロはピリピ 2:4 で、「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい」と言います。最初から、「礼拝は確か日曜の日中にあると思いますよ」とか、「礼拝開始は、メキシコ時間ですよ」とかなら、遅れてきても、腹も立ちませんが、まずアメリカや日本では、時間にシャープに始まるのが常識です。

   何年か前に召された辻宣道という牧師は、この時間について、もっと厳しく書いています。ちょっと引用しますと、・・・・・

 

   どうしてか遅れる人は一年中遅れる。無神経です。何故五分早く出られないのか。なぜ手順よく家事を始末できないのか。そのズボラ加減がこたえるのです。こういう人は汽車にも遅れるかというと、さにあらず。自分の生活にかかわることについては、待ち合わせる人の迷惑などを考え、結構都合をつけるのです。知っているのです。それなのに教会の集会は・・・・。

   遅刻者は自分だけのことと思っていますが、そうではありません。まず説教者を落胆させる。気力の充満している出鼻をくじくから、しらけさせてしまう。会衆も遅刻者に視線が走る。遅刻が集会の破壊という意味はここにあります。私は前ほど時間をうるさく言わなくなりました。いい歳をして!同じことを! あきあきした! でもそれはいけないと思い直しました。教会だからこそ、キリスト信者だからこそ、時間をきっちり守りたいのです。「小事に忠実な人は、大事にも忠実である(ルカ16:10)」

 

と書き、最後に、辻牧師はこう結んでいます。これは私パスター・エイブの思いでもあります。

 

「気を悪くされたら許してください。でも、どうぞ分かってください。時間を守るということは、信仰の第一歩、さらに言えば確立*(Discipline)の基礎なのです。教会の生命です。」  (*「規律」の間違いではないかと思う。) (辻宣道著・『教会が強くなるために』 日本キリスト教団出版局 より)

 

   礼拝など、一人二人遅れてきても、始められるものは、まあ人が揃わないままでも進めますが、その人がいないとどうにもならないと言う場合の遅刻にはこたえます。その人とどこかに行くと言う場合とか、その人がその集会にいなければ始められないというような場合です。

   出エジプト20:15は「盗んではならない」と教えます。この御言葉は、どこかで泥棒を働いてはいけないという意味ばかりではありません。時間に遅れることで、相手の時間を盗んでいるのです。盗んでいる方は、自分が盗んでいるなどという感覚は、これっぽっちも持っていないので始末が悪いのです。

   野外礼拝などで、車で、ある場所へ行く・・・・と言う場合、その遅刻常習者もその車に乗って行くことになっている・・・・しかし時間に現れない。きちんと時間に集まっている人たちは、車の中で待っている。しかし、まだ現れない。電話をかけてみると、家にはいない。携帯にかけてみるが、留守電になってしまう。「おかしいなあ。何かあったのかなあ」車の中では、その一人の人のことを心配しだす。勿論、誰にでもアクシデントはあるかもしれないので、時としては遅れることがあるかも知れない。しかし、遅刻常習者の遅刻は大体は、とてもエクスキュースの不可能な遅れ方でしょう。

   「ごめんなさい。車がすごく混んでまして」ではエクスキュース出来ない場合があります。昼間の空いている時に走るのと、朝方や夕方に走るのでは、当然かかる時間が違います。それを昼間の空いている時の感覚で、出て来て「混んでまして」は、オソマツ。普段15分で行けるところでも、30分かかるかもしれません。そういう風に予測して、人と会わねばならないとかの大切な約束なら、さらに向こうについてハアハア息を切らさなくてもいいように、さらに10分くらいは余裕を見て家を出るのです。映画を観るような、他人に迷惑をかけないものなら、いつもと同じ15分前に行けばいいのです。プリビューや、その映画の最初の5−10分をミスしても、殆ど他人の迷惑にならないからです。(それでも静かに劇場に入りましょう。)

    私はかつて米国トヨタで働いたことがあります。あの会社は、会社の中は勿論ですが、外の会社にも時間を守ることには、非常に厳しいです。JUST IN TIMEが社是ですから、まず遅れることはありません。製造工程、…例えばアッセンブリー・ラインのそれぞれの部署に、その時その時に必要な部品が、部品工場から届きます。こうしてトヨタは、部品のための倉庫を持たないのです。これがある会社が、ある部品の納入を遅れたらどうなるでしょう。たちまち製造に支障がでます。アッセンブリー・ラインを止めるような、ミスだったらどうでしょう。何百、何千という工員は手持ち無沙汰になります。トヨタは仕事をしない工員にも時間で給料を払わねばならないので、大損害になるのです。

    それまで作っていた型の車から、新型モデルになる時には、工具の入替や、さまざまな、煩雑でいつもとは別の余分な作業があります。そういうためにトヨタの場合、どれ位時間がかかると思いますか?アッセンブリー・ラインは動き続けています。トヨタの方に聞いたのですが、ほんのカラの台車が二台くらい通過するだけで、もう三台目からは新型モデルに替わるそうです。この速さは、決してアメリカのオートメーカーには真似できないそうです。この時間に対する、厳しい管理が、トヨタを世界一の自動車メーカーに引き上げた理由の一つでもありましょう。

    「時は金なり」と申しますが、まったくそうです。みんなにとって時間は大切です。一人が遅れると、極端なことを言えば、多くの人々の時間が盗まれます。何も、ソニー・プレステを買うために、三日前から徹夜で並ぶようなことを、要求しているのではありません。少なくとも、メンバーは、きちんと時間に集まって、「ようこそカリフォルニアの星教会の礼拝においでくださいました。ただ今から、礼拝を始めます。ご起立ください」と司会者が言ったら、サッ立ち上がって、礼拝出来るようにしたいものです。