2007年7月29日

終わった!始まる!キャルスター・ホーム

  「将来は、シニアー・ホームを!」という幻を持ったのは、もう私達がこのカリフォルニアに来て間もないことからでした。実は妻の充江が、一時こういうシニア・ホームで働いていた時期があります。1988年から91年くらいまでです。その当時、私達はサンホゼから大体110km 位南のシーサイドという町に、毎週伝道に出かけておりました。たくさんの戦後アメリカの方と結婚した婦人達が住んでおりました。家内のやっている仕事を見ていたので「やがて、この人たちには、こういうホームが必要になるだろう」と思いました。しかし、まだ自分達の会堂も持っていない時期でしたし、私達にとっては、「まず会堂を!」ということが先決問題でした。92年に会堂の建物を買ったのですが、それを会堂として使えるようにするのに、何と十年かかりました。その間の私達の闘いは、もう何度もお知らせしています。

  会堂のプロジェクトが終わったのが2002年でした。この頃になりますと、シーサイドで出会った婦人達にも、シニアー・ホームの必要な人たちが出てきます。それから我が家を、シニアー・ホームにするために改造をすることにしました。私達が会堂のプロジェクトに苦闘していた10年、私たちは殆ど、我が家に手を入れている余裕はありませんでした。家そのものが築50年以上の古い家ですし、10年にわたって手を入れていないのですから、もう最後の方は、アバラ家という感じで、雨漏りがして、壁にはひどいシミが入って、その雨漏りしたところから腐って、屋根に穴があきそうでした。仕方がないので、屋根はパッチを貼って、とりあえず雨漏りを防ぎましたが、我が家は小高い丘のふもとにありますから、上から屋根を見ると、パッチの貼った屋根は、いかにも見苦しいものでした。庭は雑草がボーボーに生えて、妻と「Harmony Ln  (私達のストリートの名)で、一番見苦しい家じゃない?」というほどでした。アメリカでは、コミュニティー全体の美を考えなくてはなりませんから、こう見苦しくては、ご近所から苦情が出ても不思議ではありませんでしたが、なんとか直接の苦情を聞くことはありませんでした。

  2003年、シニアー・ホームのための増改築をするために請負業者と契約して、二つの寝室とリビングルームを増やし、キッチンやバスルームを改装する予定でした。ところが、その年、娘のキャロルの結婚式があって思わぬ出費がかさみ、(アメリカの習慣では、結婚式は全部花嫁サイドの出費なのです。) 借りたお金が足りなくなって、必要な工事が全部できなくなりました。2寝室とリビングルームの工事は、2004年が終わる頃には完成しましたが、残りは私がそれをすることにしました。つまりキッチンと二つのバスルームの全面改装です。実は大きい方のバスルームは、若い某国の渡り職人に頼んだのですが、この男の仕事は私よりヘタクソで、おまけにお金を払ったのに、そのお金を持って逃げてしまいました。それ以来、その某国の職人は信用しなくなりました。それで、結局残った部分全部の改装を、私が手がけました。

  2005年春に、州のオリエンテーションに行き、シニアー・ケアの管理者コースを妻と受講し、州の試験に合格しました。実は、英語の試験については家内が心配でしたが、家内も無事合格でした。そして長く働いたレストランの仕事を辞めました。シニアー・ホームをするためには、順当なことでした。こうして、最終的工事を完成して、その年申請する予定でしたが、その年の夏、ひどいギックリ腰をやりました。年齢が年齢ですから、回復が遅いのです。一時はもうこのまま腰が伸ばせないかと思うほどでした。結局その年の申請は無理でした。ギックリ腰は、ほぼ回復というまでに約一年かかりました。これですっかり、自分でやるはずの工事の日程が狂いました。また家内が、レストランでの仕事を辞めておりますので、経済的には、非常に厳しい状況になりました。しかし増築をしておりますし、あとの必要な工事を完成して、何とかオープンにこぎつけなくてはなりません。

  2006年春、もう一度州のオリエンテーションに行き、10月、州に正式にシニアー・ホームの申請を出しました。おびただしい数の申請書類は、私の手に負える仕事ではなく、また私の場合、建設作業が忙しくて時間がなく、業者に頼みました。まだいくつかの工事は完成していませんでしたが、申請しても、それが受け付けられるまでに、おそらく数ヶ月あると聞いていたので、その間に何とか工事を完成させようという強行突破の計算でした。ところが、今年になって申請した書類が受け付けられは、最後のインタビューも終えましたが、正直言って工事はまだ完成できませんでした。カーペットの取替え工事で思わぬ出来事が起こりました。カーペットは、そんなに上等ではなかったのですが、さりとてそんなにひどいという感じではなく、このままでいこうと思っていました。しかし、最終的には、家内が一生懸命やったペンキ塗りの結果、いくつかのペンキの汚れもありましたし、「やはりシニアのためには、新しいきれいなカーペットにしようよ」ということになり、業者に見積もらせました。彼らがサイズを計りに来ました。そうしたら意外にも「古い床に張ってあるビニール・タイルにアスベストが含まれているから、ビニール・タイルをはがせ」と言われました。それで、仕方なく剥がす工事を業者に見積もらせたら、家全体で4万ドルだと言われてしまいいました。「冗談ではない!」と思いました。完全に足元を見られていたのです。最近アスベストが肺ガンの原因になるということで知られており、業者は必ず自分達に頼んでくると思っていたのでしょう。そのビニール・タイルの上からカーペットを貼ってしまえば分からないのですが、やはりアスベストが含まれているということを知っていて、それを隠すということは私の良心が許しません。剥がそうと思いました。しかし業者に頼むのではなく、これも自分でやろうと決心しました。ほぼ家全体に貼ってあったビニール・タイルを、二日で全部剥がしました。何も言わず、黙々とタイルを剥がしました。あの時は、何かの霊に取り付かれたようで、家内が言うには「あなたの顔、恐ろしかった」ということです。そしてその上から、アスベストには関係ない、陶器のタイルを敷き詰めました。今からその仕事のあとを見ますと、「本当によくやったものだ」と我ながら感心すると同時に、「もう二度とやりたくない」と思います。私が将来肺ガンになったら、この時の作業が原因かもしれません。

  私は実は、タイル貼りなど日本でもやったことはないのですが、アメリカにはあらゆる工事のいい解説本があります。そういう本を買って来て、その本をたよりにこれらの工事をしました。タイル工事、電気工事、配管工事、…みな解説書のお世話になりました。さすがに素人ですから、最初の方にやった仕事と、慣れてきた後半にやった仕事では、質が違います。二つのバスルーム、キッチンも含めて、随分たくさんのタイル貼りをやりました。まあ、Acceptable な仕事でしょう。

  あと予定外の工事は、この春、市の消防局が来て、「非常用のドアが足りないから、それをつけろ」と言われたこと、身障者のために通路をコンクリートにしなさいといわれたことです。この時も慌てました。5月に息子のルークの結婚式があって、このためにも、また仕事を煽りました。実は、壁を壊して、ドアを取り付けるくらいは、そうたいした大工工事ではありません。しかしこういう仕事は市から建築許可を取らねばなりません。パーミット(建築許可)の申請と、その後の検査が大変なのです。そんなドア一つでも、こういう仕事をするのですから、ライセンシングのためにはキチンと建築許可をとっておく必要があります。これを図面を描くところまで、プロに頼んでいたのでは、望外なお金と時間がかかります。それで中学生の時にやった、技術家庭の時間を思い出しながら、素人っぽい製図をひいて、それを市に持っていったら、意外とそれで通りました。電気工事も、水道配管工事も、電話の配線工事も皆私がやりました。通路のコンクリート打ちは、業者に頼みました。

  これまでの取り組みの中で検査官の気質も分かりました。ある白人検査官は、非常に素人の私を蔑みました。あれは私が東洋人だったからかもしれません。検査官でも親切な人は、「これはこうやるんだ」と教えてもくれました。「大体、この程度でOKだろう」というカンも分かってきます。今回の、ライセンシングの検査でも、私としてはひそかに一発OKを狙って、気配りをしました。それが功を奏したようです。

  消防局の検査では、火災報知器の配線の手直しを設置を言われました。この配線も自分でやりました。それと、随分あとになって、消防局は「ああ忘れていた。バッテリー・バックアップの煙探知機を各部屋に取り付けなくてはならない」ということを言いました。「もっと早く言えよ」と思いましたが、検査官を怒らせてはいけないので、「はいはい」と承りました。しかしこの工事は私はやったことがありませんでした。とりあえずパーツを買って来て、説明書を見ると、意外と簡単そうでしたので、これも自分で比較的簡単に取り付けて、消防局の検査はOKになりました。

  古いフェンスの建てかえは、お隣の知り合いの方にお願いしました。これが意外と安かったので、驚きました。このフェンスの建て替えは難しい仕事ではありませんが、時間切れで、頼む以外にありませんでした。

  家具を取り揃えたりすることも案外時間がかかりました。全部新品などは、とても入れられません。いくつかが中古家具です。それらを見つけるには、craigslist.org というサイトが大助かりでした。またその運送には、昔300ドルで買ったトレーラーが大活躍しました。(家内はリヤカーと呼びます。確かにリヤカーですが…)。日本の皆さんにはわかりづらいでしょうが、アメリカではどんな車でも、その車の後ろにトレーラーを引いて走ることは、何も問題ありません。私達にはトラックはなく、乗用車しかありませんから、荷物を運ぶには乗用車の後ろに、トレーラー(リヤカー)をくっつけるのです。

  こういう作業のほか、最終段階では、手持ち金が現金で最低2万ドルくらい必要だということで、大慌てしました。いわゆる「見せ金」です。「見せ金」でも、どうにもそれだけ揃えられないのです。祈りのうちに、高校時代の田舎の友人の一人に、電話をかけました。私の高校時代の仲間は、大体が事業をしている人達ばかりで、サラリーマンが少ないのです。そうしたら、彼が二つ返事で、「いいよ」と用立ててくれました。彼は信仰者ではないのですが、今でも私が田舎へ帰れば、「ヨォー」と声を掛け合う仲間で、まったく私の場合高校時代の仲間は、本当にいい奴ばかりです。このブレッシングスは、彼らにも送っています。什一献金などの話などが出ますと、彼らは何しろ、信仰者ではないので、「石原君、収入の十分の一はきついぞ!」などとコメントしてくる愉快な仲間ですが、時には献金を送ってくれるような奴らです。こうして運転資金があるという証明もOKになりました。

  ルークの結婚式の後、キャルスター・ホームの「入所同意規定」と「ハウス・ルール」を作成せねばなりませんでした。これが以外に時間がかかりました。デスクのコンピューターに向かうこと約一週間へばりつきました。州のルールに反しないような規定を作る必要がありました。

  最後の最後は、片付けです。私は結構大工仕事などをしますから、材料の板や材木のストックをもっていました。また物持ちのクセがあって、ブロックやレンガ、ふるいトイレット。ボールまでも、「またどこかでつかえるだろう」と持っていたのです。これらを捨てたり整理したりせねばなりません。つまり大掃除ですね。今ではすっかり何もなくなったガレージを見て、「一体、どうしてあんなにガラクタがあったのだろう」と妻と二人で苦笑しています。

  こうして本格的計画開始から4年、遂に全部の準備が終わりました。すでにお知らせしたように、先週月曜、州のエージェントのマギー・ハリス氏がやってきて、「キャルスター・ホームは準備完了」の書類に、サインしてくれました。

  お金がないところで始めたプロジェクトでしたが、多くの方々が献金で、あるいは教会債で助けてくださいました。本当に感謝いたします。このキャルスター・ホームが、今後主として日系の婦人達のゴールデン・イヤーを有意義に過ごすことができる場所として用いられることを願っています。続けてお祈りください。