2007年8月19日
御座の前に立つその時
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。黙示録20:12
この夏、日本から来たお客さまが私に持ってきてくださったものに、季刊『文芸春秋』があります。この夏号は、「日本人の宗教」が特集になっていました。キリスト者として読んでみると、まあ、この世においては立派な人たちでも創造主を知らない、従ってその方を信じない人たちというのは、実に浅はかなことを言っているものだと思ってしまいます。それよりむしろ、この創造者なるお方に対する非礼については、やがてそれらの方々も御座におられる方の前に立たねばならないであろうに、その時の正当なさばきに対して、恐れを感じるのです。
総じていえることは、日本人の中には、創造者なる神を恐れるという心が非常に希薄です。それは当然です、何故なら多くの日本人の中には、そういう絶対者はおいでにならないからです。
中松義郎という方は、「仏教でもキリスト教でも、生きている間にいい行いをすると極楽なり天国に行けますと、同じ考えをしていますが、それはひとつのまやかしであり、天国にいけるか地獄に落ちるかという一種の脅迫でもあります。死んだ後は、簡単に言えば炭酸カルシウムになるわけで、天国なり極楽なりは、何も関係ないわけです」と仰せられます。やがてこの方も、御座の前に立ち、こういう発言に対して申し開きをせなばならないでしょう。その時、御座に立つお方の前で、もう一度同じように言えるかどうか…・・。
相手が誰であろうとズケズケ物を言うクセのある傾向を感じるノンフィクション作家の上坂冬子氏は、「神も仏も究極のところで、すがったりアテにしたりできる対象ではないのだろう。クリスチャンの場合は、取り返しのつかない不幸のどん底にある時、神から試練を与えられたと解釈して耐えると聞いたことがある。そういう負け惜しみをテコにして立ち直るのは、私のような即物的で情緒の乾いた人間にはできることではない。存在するかどうかもわからない神という仮説を自分に課し、それを信じて自分を騙すという形而上的な芸当は私には不可能だ」と書いています。この方によれば、彼女の40代の頃には、すでに自分の墓は富士山麓に買ってあって、戒名はなしで、自分の代表作品のタイトルを彫ればいいと思っておられたようです。ところが、今75歳になって「妙な思いを抱くようになっている。私の死後。富士山麓から一部分骨して両親の墓に入れてほしいと思うのだ。神も仏も霊魂も、ましてや骨や灰の意味なども無視してきた私にとって、予想だにしなかった情緒というほかない」と書いています。今になって、やっと霊魂のことについてお感じになり始めたのですかと言うほかありません。信じようと信じまいとの関わらず、すべての人をお造りになった創造主がおいでになるのです。御座の前に立たねばならないことを、もうちょっと真剣に考え、悟ってもらいたいものです。
調子がいいのは、上智大名誉教授の渡辺昇一先生。「人が神―霊界と言ってもよいー はないと信じて死んだ時、もし神がいなかったら、失うものはない。また得るものもない。しかし神がおったら、すべてを失う。人が神は存在すると信じて死んだらどうか。もし神がなくて虚無だとしても損するものはない。もし神が存在していたらすべてを得るのである」 と仰せられます。
…・「そんなバカな」 と思いました。そんな生命保険のように、「まあ、安全のためにとにかく信じておこうか」という信じ方を、聖書は伝えているでしょうか?
イエスさまは、「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです(マタイ22:37)」と言われました。聖書で言う、「信じる」ということは、創造主なる神、全能の神に従うことを要求します。恋愛でも「あなたを愛しています」と口先で言っておいて、浮気、不倫、不品行をしているような愛し方は、本当の愛し方ではありません。
渡辺先生は上智出身ですし、長い間上智大で教えていましたし、彼の専門は英語ですし、彼の頭の中には、知識としてはキリスト教の神が意識されていると思いますが、残念ながら「信じておいた方が得」というような信じ方では、創造主なる神信仰とは何も関係のないことです。こういう態度では、やはり御座の前に立たされるでありましょうし、そういう信じ方ではすべてすべてを得るのではなく、すべてを失うでしょう。
文芸春秋は、この世の雑誌ですが、その中に淀川キリスト教病院の柏木哲夫先生は、「人生の途上で悲しいこと、苦しいこと、切ないこと、不都合なこと等は必ず起こる。そんな時私を支え続けた聖書の言葉がある」として、ローマ8:28 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」を挙げておられます。そして医師である柏木先生が、「嫌なこと、不都合なことが起こったときに、それを信仰で乗り越えていきたいと願っている」と結んでおられます。つまり科学者である先生が、絶対者にいつも信頼していることを、表明しています。
プロテスタントの信仰者は、他にも起訴休職中の外務省職員佐藤優氏も書いていますが、彼の信仰観は私のような福音派には、なかなかストレートには理解しがたいものです。カトリックで、東大大学院教授の船曳建夫先生の、「しかし神だけを信じて、孤立無援に生き、死ぬことができるのだろうか。それが何らかのかたちで、思いがけなく、いつか試される時が来るのではないか、といまでも考えている」には、誠実さを感じました。また新共同訳の翻訳に関わったカトリックの小川国夫氏の信仰観、聖書観には、私が描いていた従来のカトリック信者にはない新鮮さを感じました。
ただ「タイトル」からだけでも、御座に立つ時の恐ろしさを感じた人たちがおりました。勿論多くの方が、まだ創造主が分からないのですから、そういう書き方になるのでしょうが、先に挙げた上坂さんの「神など頼まず」のほか、「宗教は趣味の問題」(まついなつき氏)などは、ちょっとフザケすぎたタイトルに感じます。ただ、ここに書いておられる47人の中に、ちょっと歪んでいるなと思える信仰に対する姿勢であっても、明らかに聖書とかキリスト教が、その方の信仰というものを考える中で大きな影響を与えているという方が、少なくとも九人はおいでになります。日本のクリスチャン人口が1%と言われる中で、20%からの人々が影響を受けているということは、素晴らしいことです。まあ、こういうところに書くような人は、どちらかというとインテリの方たちですから、信仰を考える時、聖書を挙げる人が多くなるのは自然ですが、願わくは一人でも多くの方が、御座の前に立つ時に、善悪を正しくさばくお方がおられるということを、聖書を通して、また信仰を持って、知っていただきたいと思います。