2007年9月9日
3:16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
最近私たちは礼拝で、『収穫は多いが働き人が少ない』という歌を歌っています。この中に、「汗を流せ、犠牲を払え」と歌うところがあります。この表現は、問題になるカルト的教会でもよく使われる言葉ですので、いささか気にはなるのですが、私のお伝えしたいメッセージは、聖書的にみた、『喜んで、犠牲を』であることは言うまでもありません。この間もE-Mail Blessings に書きましたが、今日の時代に、「汗を流せ犠牲を払え」などというメッセージはあまり好まれるものではないかも知れません。しかし、聖書は確かにそれを教えています。
多くの人々は、ヨハネというと「愛の使徒」という風に捉えているでしょう。しかしこのヨハネのメッセージは、しばしば世の人々が甘く捉えがちな「愛」のような、生半可なものではありません。むしろ今日の人があまり好まない、犠牲的な愛であります。こういうことが新約聖書に記されているのは、おそらくこのヨハネという人の書いたものが、新約のほかの書物より、かなり後になって書かれているからかも知れません。彼の書いたものは第一世紀の後半、おそらく90年以降であり、他の新約の記者のものより、大体30年くらいは後に書かれているのです。
大体他のことについても言えるのですが、時が経過すると、標準とか基準というものはたるんでくるのですね。良くはならず、大体悪くなってきます。政治の世界などでも、例えば汚職などがあると、「党紀粛正」などと声をかけ、その時は引き締めますが、またしばらくするとたるんできて、また汚職が起こります。
ヨハネは、ことに福音書では、キリストの神性をもう一度強く打ち出しております。それはその当時だんだん影響力を伸ばしてきたグノーシス派の影響で、十字架で死なれたけれども、三日目に復活なさったイエス様の神性が危うくなっていたからです。
いつでも真理はゆがめられる危険をはらんでいます。今日でも多くの方々は、なるべく楽をして、つまり犠牲を払うということなしに、永遠の命も頂きたいし、天国も頂きたいと考えがちです。しかし、初代教会の弟子たちや、これまで歴史を通して知られるクリスチャンたちがどれほど、その信仰を守るために犠牲を払ったかを、もう一度考えるべきです。そしてその信仰の継承のためには、喜んで犠牲を払うことを、今日のクリスチャンたちも、要請されているということを覚えるべきであります。
「主は私たちのために、ご自分の命という犠牲を払われました。ですから、私たちもまた、兄弟姉妹のために命を捨てるほどの犠牲を払うべきです」などと、訴えるなら、皆さん方は、浮世からのメッセージかと思われるかも知れません。しかしこのみ言葉は、まったく割引や付け加えなしの聖書のメッセージであります。
私が洗礼を受けたのは今から39年前ですが、その時洗礼を授けてくださったのは、菊地隆之助という先生でした。洗礼式のあと、私の聖書にみ言葉を書いてくださったのですが、それがこのみ言葉でした。
この先生はすでに天にお帰りになっていますが、秋田から出てきて、戦中、戦後の貧しい時代を浜松で過ごされました。あの当時の中学を出た方は、殆ど将来が約束されていたのですが、そういうこの世の名誉を犠牲にして、生涯、一伝道者として伝道し続け、多くのお弟子さんたちを輩出なさいました。その先生のもとで、大方35年前、神学校を出たての私も、インターンの一年を過ごしたのです。
これはキリスト教のベイシック中のベイシックですが、また申し上げます、「イエス様は神であられたのですが、私たちのために十字架で命を捨ててくださった」ということです。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました」とある通りです。この意味が分からない場合、当然キリストの愛が分かりません。ですから喜んで犠牲を払うなどということの意味も分からないのが当然です。ですから、まず十字架とあなたの関係を正しく押さえてください。
「キリストを十字架に架けたのは誰か?」という問いは、クリスチャン家庭で育った人でも、自動的にはなかなか分からないのです。「それはあなたですよ」と指摘するなら、「とんでもない」と言ってから、多くの方々は、「私はキリストの時代に生きてはおりませんでしたし、生まれてさえもおりませんでした」とお答えになるでしょう。クリスチャンとして生きるということは、何かサークルにでも入るかのような簡単さで考えておられるようです。この節は、インターネットで様々なサークルに加入することが出来ます。あの感覚で、クリスチャンになれるとお考えのようです。そして実際そういう感覚で、洗礼を受けている方がおいでになるのですね。
私たち夫婦の周りには、日本からやってくる人にも、日本で会う人にもクリスチャンの方が多いですから、私は「ちょっとこの人の信仰は?」と疑問を持つ方には、意地悪みたいですが、この質問をして彼らにチャレンジします。するとかなりの確率で、分かっていないのですね。
以前、私達の教会でも、ある方に尋ねたことがありました、「キリストを十字架に架けたのは誰ですか?」と。そうしたらその人は、ニコっと笑って、「ローマの兵隊だと答えては間違いですよね。私が十字架にかけましたと答えるのが正解ですよね」と答えました。私の観察では、この方はおそらく新生していない方だと思います。私がいつかそういうことを教えたので、そう答えただけなのです。実はそういう感じの、いわゆるクリスチャンが多いのですね。この意味が分かるのは、全く聖霊さまの働きです。しかし「イエス様は私のために十字架にかかって死んでくださいました」と告白することは、大切です。信仰は告白することです。その告白ですら、信仰がなければ出来ないですから、告白することは、その意味が本当に心から分かることにつながるでしょう。
パウロは、「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです(1テモテ1:15)」と申しました。この時、パウロは彼が新生してから約30年は経っていたでしょう。彼のクリスチャンとしての30年の生活は、名誉ある律法学者の生活をかなぐり捨てた、まさに献身と犠牲の生活でした。その彼が、「罪人のかしらです」と言っているのです。これはギリシャ語本文でなくとも、日本語の聖書でも分かると思いますが、現在形なのです。「今もなお、罪人のかしら」だと言っているのです。
このイエス・キリストが十字架に架かって死なれたということを、単に21世紀に生きている自分との関わりで捉えると、「とんでもない、私はその時に生きていなかった」、つまり「私には関係ありません」ということになるのですが、これを人類全体のこととして考えてみると、(実際神の子は、天から人類全体のために、この世に来られたのですから) まさに、その多くの方々が言う「関係ない」が、キリストを十字架に架けてしまっているのです。
私たちの教会では、毎週大人も暗唱聖句をしています。どうもこの真理がイマイチ分からないという方に提案ですが、例えばこの1テモテ1:15 を暗唱して、毎朝それを口に出して告白してごらんなさい。しばらくすると、きっと聖霊さまが働いて、その真の意味を教えてくださるでしょう。
このキリストが私のために十字架に架かって、命を捨ててくださったという意味が分かれば、その愛の大きさがおのずと分かりますね。
ヨハネはここで、「それによって私たちに愛がわかったのです」と言います。ここで「愛」と言われている「愛」は、聖書では有名な、「アガペー」の愛であります。
最近思いますが、「愛」は耐えるという真理が分からない人が多すぎます。まだ三浦綾子さんが生きておられる頃、私は三浦さんの書の入ったはがきをもらったことがあります。そこには「愛は耐える」とありました。1コリント13章は、「愛の章」と言われますが、そこにも 愛は耐えること書いてあります。愛は、「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます(13:7)」。とあります。
「辛抱」「耐える」という点で、最近の日本の人たちは劣りすぎです。簡単にキレ過ぎなのです。「子供が泣き止まない」とか、「おもらしをした」と言って、折檻して殺したとか、しばしば日本からこの手の悲しいニュースが伝えられると、いったいどうなっているのかと思います。
今月はあのマザー・テレサが召されて十年です。彼女は生涯一人でしたが、「子ども達が愛することと、祈ることを学ぶのに最もふさわしい場が家庭であり、家庭で父母の姿から学ぶのです」と、家庭で両親から学ぶことの大切さを教えています。若い親達は、そのまた親から学んでいないので、教えられていないのですね。悪循環です。
親も、周りの人も、その殆どがキリストの示された、真実の愛が分かっていないのです。親や大人が分かっていないから教えられない、従って若い人は教えられていないのです。そしてそういう人たちが、親になると、もうダメです。
以前、「おしん」という忍耐の限りをつくしたドラマがあったようです。私達はすでに、アメリカにおりまして観ておりませんが、どうもかなりの忍耐であったようです。しかし主イエス様にある忍耐とは、おそらくちょっと違うと思います。どうしてかと申しますと、愛を持って耐えるのですから。つまり犠牲を払うことは、いやいやからではないのです。むしろ愛のためには、潔くそうするのです。イエス様は十字架にお架かりになる時、逃げ隠れなさったでしょうか? 逃走しておられたけれども、ついに捕まえられて、十字架に架けられたということだったでしょうか?違いますね。
人が真実に生きたものとなるために、自分が十字架にかかることは、むしろ喜びですらあったのです。ヘブル書はこういいます、「彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである(12:2)」と。このイエス様の喜びは、自分が十字架に架かって死ぬことで救いの道が完成する喜びです。イエス様の十字架での死で、罪人の頭であっても、悔い改めるなら命に入ることが出来るのであります。
この愛は、すべての人類に備えられてはいますが、それを見出す者は多くはないのです。しかしあなたには是非、見出していただきたいのです。
そうしてキリストの愛を知った人は、「ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」と、犠牲を払うことが勧められます。
もう随分になりますが、息子のルークがメールをくれる時には、いつも最後に「John 15:13」と聖句の引照が書いてあります。それは「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」です。私は息子に、本当にキリストの栄光のためには、一番大切な命ですらも差し出すことが出来る愛の人であって欲しいと願います。英語では、彼らは救われたとき、”I
gave my life to Jesus.” と言います。
イエス様に対するご奉仕なら、喜んですべきですね。カリフォルニアの星教会では、いやいやご奉仕をする人は、しなくていいと教えています。問題のカルト的教会はというのは、殆ど強制でさせるのですね。しばしば信仰が伴わない、従って喜んで出来ないご奉仕になります。そういうご奉仕は、主がお喜びにならないのです。ただし、主を喜ばせないで、自分を喜ばせる奉仕ばかりに熱心ですと、本当の喜びがなくなってまいりますからお気をつけください。
献金でも同じです。いやいや献げる献金は、主がお喜びになりませんね。私は献金という犠牲を払わなくてもよいと言っているのではありません。むしろ、「犠牲を払え」ということですから、主がお喜びになるような献金の犠牲をささげたいと願いませんか?献金を喜んでするには、信仰が必要です。
主にある犠牲を払うということは、聖書の教えです。時間でも、労力でも、献金でも、それがたとえあなたのいのちであっても、キリストの栄光のために奉げられることは、尊いことです。何年か前に、雲仙に行きました。そこはキリシタンの方たちが、熱湯をかけられて殉教したところでした。あなたは信仰を守るために、自分の命をも差し出すことがおできですか。イエス様の十字架から始まって、その後は殉教者の血がキリストの愛を、今日まで伝え続けています。キリストがあなたのために十字架で死んでくださったことで、本当の愛を知り、命を得たのですから、今度は兄弟のために命を捨てるほどの犠牲的な愛を示すべきです。命を捨てる覚悟があるなら、かなりのことが出来ますね。
祈りましょう。