2007年9月2日

収穫は多いが働き人が少ない

  実は、この7月以来、カリフォルニアの星教会にはピアニストがおりません。私達の教会のピアニストをやってくださっていた姉が、ご主人の仕事の関係でハワイに引っ越されたからです。この私達のピアニストは、非常に優秀なピアニストでしたが、帰国された時など、時としてピアノのご奉仕が出来ない時などは、ベサニー大の学生さんが臨時のピアニストをやってくれていたのです。しかし今年は、そのベサニー大の学生さんも卒業・帰国し、もう全くピアニストがいなくなってしまったのです。実は、我々のような小世帯の教会では、今までもこういう事態になったことが、なかったわけではありません。そういう場合はどうやっていたかと申しますと、私がヘタクソなギターでもって、礼拝の伴奏をやって切り抜けてきたのでした。ですから、今回も「そういう事態になるかな」と思ったのですが、このハワイへ引っ越した姉が、毎週CDにピアノをレコードして、礼拝の伴奏全部を送ってくださっています。CDですから、生の時のように、「ちょっとここでもう一回歌いたい」というようなことは出来ませんが、それ以外は、まったく具合よく、前と同じように姉のピアノで礼拝をもつことが出来ます。最近の、この分野のコンピューター録音機能は、本当にたいしたもので、本当にきれいに録音が出来ています。

  これまでシニアー・ホームの取り組みで、とても気が回りませんでしたが、気持ちに少し余裕が出来ましたし、この2ヶ月間は、私は礼拝の司会というか、ワーシップ・リーダーでしたので、少しオリジナリティーのある賛美をやりたいと思って、曲を書き出しました。

  カリフォルニアの星教会では、もうずっと頌栄は、私が作った頌栄をを歌っています。このハワイへ引っ越したご家族には、お子さんがあって、彼らがまだサンホゼにいた時には日曜学校をやっていました。その時に、子供の頌栄を書きました。家内に言わせると、私が作った曲の中で、一番いい出来だということです。それで、最近は、その子供の頌栄の歌詞を、ちょっとだけ大人風に変えて、大人の礼拝で使っています。

  今週の説教は、「収穫は多いが働き人が少ない」でしたので、それに合わせて作ったのが、以下の歌です。

 

  収穫は多いが働き人が少ない 御言葉携え 出て行く者がたりない

  すべての造られた者に 十字架の福音伝えよと

  仰せられた主イエスの み声に聞け  

 

  (折り返し)汗を流せ 犠牲を払え 主の再び 来られる日まで

 

  収穫の時まで 四月もあると言うな 目を上げてみよ田は すでに色づいている

  祈り心をもって 利鎌(とがま)を携え行く時は 今をおいてはないと 心せよ

 

  今週から家内がワーシップ・リーダーでしたが、私もこの歌を大声で歌いました。そうしたら、さすがに日本語においては、普通の日本人ほどは分からない我が家の二人の子供たちが、会衆席にいて、スマイルしているのです。礼拝が終わってから、「あれはダッドじゃなければ書けない詞だよね」と言うのです。

  そう思います、宣教の熱意に燃えていなければ、こういう歌はかけないと思います。大体この時代に、「汗を流せ、犠牲を払え」などと歌えば、オカルトの宗教の歌かと疑われる恐れがありますね。その程度に、最近の教会音楽は、宣教の思いをかき立てるという点では力がなくなってきているように思います。この私が書いたような詞は、最近の信徒レベルの作者では出てこないだろうと思います。「汗を流す」「犠牲を払う」 …信仰の足りない人たちは、こういうことをあまり好まないでしょう。「今をおいてはないと、心せよ」というステイトメントは、真実でも、この時代ではかなり強烈ですね。ですから、私は思うのですが、教会音楽を、あまり信仰もない、ただ音楽的素養があるというだけの信者にだけ任せておいては、まずいと思うのです。音楽的に素養があることは、大切ですが、教会音楽で大切なことは、詞でも曲でも、霊にに満ちた人が書くのが理想だと思います。必ずしも伝道者である必要はありませんが、普通霊に満ち、宣教の熱意に満ちているのは、伝道者に多いでしょうから、そういう伝道者の書いた歌が現れることを期待します。

  今はあまり歌われなくなった聖歌でも、その「宣教」のところにあるいくつかの歌は、ほとんどが私の大好きな歌です。特に525「語りつげばや」とか、530「悩む世人のために」が好きで、これらを歌う時、私は本当に宣教の熱に燃やされるのです。今日の教会音楽は、あまりにもプレイズ・ソング、ワーシップ・ソングが中心で、そういう歌で、少なくとも私は、歌うことで宣教の思いを燃やされるということは、まずありませんし、近年はそういう宣教の関する歌が作られるということが少ないように思います。教会音楽においても、宣教の熱意を取り戻すべきだと思います。それには、やはり宣教の霊に満ちた、音楽的センスのあるプロの伝道者が、率先して作歌することが一番早道だろうと思います。

  このハワイのピアニストの演奏は一流で、そのピアノの伴奏を聴いて、「こんな立派な歌だったかなあ」と驚いています。来週から、「主の祈り」も、日本語の「主の祈り」に、私が曲をつけまして、それを歌うことになっています。赤いプレイズ & ワーシップ・ソングにある高 叡華さんの訳詞の「主の祈り」は、「主の祈り」の内容全体がありません。ああいう歌を、「主の祈り」として歌うことは、神学的に問題があります。だいたい、英語の Lord’s

Prayer の曲の中に、日本語の「主の祈り」を全部割り振るには無理があります。ですから、曲そのものが、あの英語の曲のように格調高いものでなくとも、祈りの全体があるほうが神学的には、正しいでしょう。それで作ったのですが、ハワイの姉から、「先生、なかなかいいですよ」と言われて、その彼女の立派なオルガン伴奏のCDが届くのを楽しみにしています。