2007年9月30日

『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン』  ダニエル書5:13−31


5:13 そこで、ダニエルは王の前に連れて来られた。王はダニエルに話しかけて言った。「あなたは、私の父である王がユダから連れて来たユダからの捕虜のひとり、あのダニエルか。

5:14 あなたのうちには神の霊が宿り、また、あなたのうちに、光と理解力と、すぐれた知恵のあることがわかった、と聞いている。

5:15 先に、知者、呪文師たちを私の前に召して、この文字を読ませ、その解き明かしを私に教えさせようとしたが、彼らはそのことばの解き明かしを示すことができなかった。

5:16 しかし、あなたは解き明かしができ、難問を解くことができると聞いた。今、もしあなたが、その文字を読み、その解き明かしを私に知らせることができたなら、あなたに紫の衣を着せ、首に金の鎖をかけさせ、国の第三の権力を持たせよう。」

5:17 そのとき、ダニエルは王の前に答えて言った。「あなたの贈り物はあなた自身で取っておき、あなたの報酬は他の人にお与えください。しかし、私はその文字を王のために読み、その解き明かしをお知らせしましょう。

5:18 王さま。いと高き神は、あなたの父上ネブカデネザルに、国と偉大さと光栄と権威とをお与えになりました。

5:19 神が彼に賜わった偉大さによって、諸民、諸国、諸国語の者たちはことごとく、彼の前に震え、おののきました。彼は思いのままに人を殺し、思いのままに人を生かし、思いのままに人を高め、思いのままに人を低くしました。

5:20 こうして、彼の心が高ぶり、彼の霊が強くなり、高慢にふるまったので、彼はその王座から退けられ、栄光を奪われました。

5:21 そして、人の中から追い出され、心は獣と等しくなり、野ろばとともに住み、牛のように草を食べ、からだは天の露にぬれて、ついに、いと高き神が人間の国を支配し、みこころにかなう者をその上にお立てになることを知るようになりました。

5:22 その子であるベルシャツァル。あなたはこれらの事をすべて知っていながら、心を低くしませんでした。

5:23 それどころか、天の主に向かって高ぶり、主の宮の器をあなたの前に持って来させて、あなたも貴人たちもあなたの妻もそばめたちも、それを使ってぶどう酒を飲みました。あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。

5:24 それで、神の前から手の先が送られて、この文字が書かれたのです。

5:25 その書かれた文字はこうです。『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。』

5:26 そのことばの解き明かしはこうです。『メネ』とは、神があなたの治世を数えて終わらせられたということです。

5:27 『テケル』とは、あなたがはかりで量られて、目方の足りないことがわかったということです。

5:28 『パルシン』とは、あなたの国が分割され、メディヤとペルシヤとに与えられるということです。」

5:29 そこでベルシャツァルは命じて、ダニエルに紫の衣を着せ、金の鎖を彼の首にかけさせ、彼はこの国の第三の権力者であると布告した。

5:30 その夜、カルデヤ人の王ベルシャツァルは殺され、

5:31 メディヤ人ダリヨスが、およそ六十二歳でその国を受け継いだ。

 

  バビロンに連れてこられたイスラエルの人達でしたが、いつもが死と背中合わせというような生活ばかりではなかったにせよ、そこには苦労がありました。ある時は、そこそこの生活ができたにせよ、またある時は、かなりの待遇を施されていた人達がいるようですが、なんと言ってもバビロンの人達は活ける神の分からない人達であります。そこでの生活は自分の国にいるような気楽さはないでしょう。そしてすでに前にも申し上げたように、ある時には燃える炉の中に投げ込まれたり(3章)、ある時には獅子の穴に投げ込まれたりするという(6章)危険な状態に遭遇します。しかし、これはどうしても避けられないことでした。3章の場合は、金の像を造ってそれを拝めと言われたり、6章の場合は、王以外には祈願してはいけないというルールを作ったのです。1章で、王の食べるバビロンの穢れたごちそうを食べさせられそうになった時も、彼らには困難な状況でした。しかし、これらの場合、考えて見ますと、どちらかと言えば困難が受身であります。すなわち相手側から吹っかけられた困難で、避けられようがないということです。ところが、この5章の場合はちょっと違うと思います。、ひとつ間違えば大困難に陥りそうな状況ですが、それを回避することは出来そうに思います。しかし敢えて、ダニエルはそれをせず、大困難に遭遇するかもしれないのに、能動的、積極的にそうしております。

  5章の最初の方に、バビロンでの大宴会が記されております。人々はさまざまな偶像を賛美しておりました。そころがそこに人間の指が出てきて、それが王の宮殿の壁に文字を記しました。その意味が分からず、時の王、ベルシャツァルは怯えました。結局、バビロンの知者達には分からなったので、ダニエルにその読み方と意味が尋ねられたのです。「メネメネテケルウパルシン」という読み方と、その意味を告げたのもそうですが、17節から28節のダニエルの答えは、受身というより、相当能動的、積極的です。

  正しいことは、自分が不利になるかも知れない恐れがあっても、告げなければならない時があります。その時には、勇気を持って告げましょう。それが長い目でみたら、よい結果を生むでしょう。

  これを告げたら、不利になるかもしれないという場合があります。このダニエル、つまりバビロンではべルテシャツァルですが、彼がベルシャツァル王から、その指が書いた文字を尋ねられた時がそうです。ダニエルには、その読み方も、その意味も分かっていました。しかし、それを言うことがどれほど相手の気持ちを損なうかを考えたら、別のことを言うことだって出来たでしょう。つまりウソを言わないとしても、「実はこればっかりは私にも分かりません」とか、あるいは沈黙するとかの道も考えられたのではないかと思うのです。

 18節から21節は、父ネブカデネザルについての批評です。この時点でも、「無礼者! 父上のことをなんという言い草だ。お前は立場をわきまえよ。ベルテシャツァル、お前は捕囚の身ではないか」と怒鳴られる、あるいは場合によっては、牢に入れられるどころではなく、殺されるかもしれません。しかし、ダニエルはさらにそれを尋ねたベルシャツァル王自身について、「その子であるベルシャツァル。あなたはこれらの事をすべて知っていながら、心を低くしませんでした。それどころか、天の主に向かって高ぶり、主の宮の器をあなたの前に持って来させて、あなたも貴人たちもあなたの妻もそばめたちも、それを使ってぶどう酒を飲みました。あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした」とその問題点を指摘します。

  真実を指摘することは勇気がいります。パウロは、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい(2テモテ4:2)」と申しましたが、「責め、戒め、勧めなさい」というところは、私達牧師としても非常に信仰と勇気がいります。と、申しますのは、正しいと分かっていても、それを教会に来ている人に言えば、それまでの平和な関係が壊れるかもしれない、早い話が、つむじを曲げてもう教会に来なくなってしまうかもしれない、あるいはよその教会に変わってしまうかもしれないという恐れが働くからです。

  イエス様は、「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。(ルカ12:51-53)」と言われました。いくらこの地上で平和な関係を保っている人達でも、この主に従うかどうかという点では、必ずいつか決断をせねばならない時が来ます。あるクリスチャンたちは、語らないことで平和が保てるなら、人が将来どうなるかということより、むしろそのまま地上では平和を保っていたいと願う傾向があるように思います。そして彼らが悔い改めなかった時には、「それは主の深い計画のうちにあったのでしょう」と言って、自分が語らなかったことは棚上げにするのですね。

  懸命に語って、それで彼らが悔い改めないのならば、それは仕方がないかもしれませんが、語らないで彼らが滅びるなら、これは大きな問題です。

  ダニエルにとって、ベルシャツァル王に対して、あるいはその父ネブカデネザル王に対して、その問題を指摘することは、私ら牧師が教会に来ている人達にある問題を、指摘し、責め、戒めることの比ではない、勇気と信仰がいっただろうと思います。

  ダニエルは、「メネメネテケルウパルシン」の意味を説明しました、「そのことばの解き明かしはこうです。『メネ』とは、神があなたの治世を数えて終わらせられたということです。 『テケル』とは、あなたがはかりで量られて、目方の足りないことがわかったということです。『パルシン』とは、あなたの国が分割され、メディヤとペルシヤとに与えられるということです。」と。日本語で読んでも、王ベルシャツァルにしてみたら、ひどい屈辱です。

  この後、ベルシャツァル王は、ダニエルに約束のように、「紫の衣を着せ、金の鎖を彼の首にかけさせ、彼はこの国の第三の権力者であると布告し」ました。このベルシャツァル王の、遜りようには驚きです。その本心がどうであれ、形としては、指摘されたことを認めているように読めます。つまり神の言葉に屈しているように理解できます。しかし峻厳な神の言葉の通り、「その夜、カルデヤ人の王ベルシャツァルは殺され、メディヤ人ダリヨスが、およそ六十二歳でその国を受け継」ぐということになります。

  ここで私たちは、ダニエル・サイドからもベルシャツァル王サイドからも学ぶことが出来ます。ダニエル・サイドからは、自分にとって不利に思えるような場合も、語らねばならない時があるということです。そのときは、勇気を持って語ろうということです。ことに、「話してくれ」と言われた時には、チャンスです。また、この時ダニエルは、「メネメネテケルウパルシン」の意味を知っていましたね。それはカルデヤが分割されるという意味でした。あなたが、誰かを見たとき、そのままではその人は滅びると聖霊様がお語りになったら、それは語らねばならない時と考えてよいでしょう。

  ベルシャツァル王の態度からは、何を学ぶのでしょう?真意のほどはどうであれ、ここでは預言者の語る神の言葉に屈しているように見えます。それです。現代の預言者である説教者が、聖書の言葉を語るとき、100%屈することです。罪の指摘を受けたと時、それを責められた時、あるいは戒めを受けた時、降伏することです。新約の今の時代、遜って罪を悔い改めるなら、どこまでも赦されるのです。時々語る側からすれば、「主よ、もういいいです。いい加減に、もうあの魂については、永遠に滅ぼしてくださいな」と願いたくなるような人もいるかもしれませんん。しかし、どんな魂であれ遜る魂は、どこまでも赦されるというのが、聖書の真理です。

  今朝のダニエルとベルシャツァル王から、主にあって、建徳的なレッスンをあなた自身のものとしてください。

  祈ります。