2007年10月7日

『もう一歩前に進む信仰』  ヘブル11:8−16


11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。

11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。

11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

11:11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。

11:12 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天に星のように、また海ベの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。

11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。

11:15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。

11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

 

皆さん方は、教会へ来ておられますから、ホールウェイにアブラハム・リンカーンの肖像画があるのをご存知でしょう。もっともその両サイドには、一方にはイスラエル信仰の祖、アブラハムと私アブラハム・イシハラの若い頃の写真も掲げてあります。真ん中のアブラハム・リンカーンの肖像画の下のほうに、小さい字ですが、  “I am a slow walker but I never walk back.” Abraham Lincoln と書いてあります。つまり、「私はのろまだが、決して後戻りはしない」ということです。

私は高村光太郎の詩も好きで、彼の「道程」という短い詩には自作で、曲までつけて、今でも鼻歌でなら歌うことがあります。彼には「牛」という詩があります。あれに曲をつけようとしましたが、どうも長い詩で、うまくいきませんでした。「牛はのろのろと歩く 牛は野でも山でも道でも川でも 自分の行きたいところへは まっすぐに行く」という詩です。

父祖アブラハムは、今でこそイスラエル人、モスレム圏の人たち、あるいはキリスト教圏の人々から、尊敬を受けていますが、アブラハムの時代には、東の方から来た名もない流れ者です。アブラハム・リンカーンは、ケンタッキーの田舎から出てきたお百姓さんのせがれです。信仰と諦めない努力で大統領にまでなりましたが、自分の子供も何人も、幼い時期に死んでおり、大統領になるまでのいくつかの選挙では、落選したことも複数回あり、何度も挫折感を味わっていると思います。しかし、「後戻りはしない」のです。

遅くとも後戻りしないで、一歩前進する信仰を身につけましょう。

神は御心に従って、前進する者を祝福なさいます。ですから、今日の御心の源泉、聖書から、御心を探って、ゆっくりであっても、一歩前進する信仰を身につけるべきです。

まず、覚えていただきたいのは、「結果を神にゆだねて従う信仰」であります。

  「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」

このアブラハムの生き方は、今日の多くの人々が考えるような、つまり「何をやったら儲かるか」「何をやったらいい暮らしができるか」「どう生きたら、豪勢な暮らしができるか」というような生き方にはとても思えません。彼は、「神が行け」と言われたので、動いているのです。その主体は神であって、自分ではありません。

この生き方は、今日の多くの人々の生き方とは、かなり違います。「いわゆるクリスチャン」と呼ばれる名前だけのクリスチャンの人達の生き方とも違います。

 私は自分が召しの声を聞いた時のことを、今でも昨日のことにように思い出すことができます。聖書のこの箇所や、創世記12章を読むとき、召しの声を聞いた時、それからどれくらいの期間があったか正確にはわかりません。私の場合は、「いいえ、主よ、お召しになるなら、他の人をどうぞ、私は献げて仕える者になりますから」という思いがあったことは確かです。それとしばしば話しますが、「伝道者になどなったら、クラウンのスーパー・デラックスに乗れなくなる」という思いがあったことも事実です。しかし、そういう思いがあるから召しには応えないとは、当時は誰にも話しておりません。聖書には、この時のアブラハムの内面については、詳細が記されていませんが、「主よ、それは素晴らしい」と、何の疑いも無く従ったかというと、これはわかりません。しかし現実は従ったのです。

信仰を持つとき、つまりまず最初は聖書の話を聞くという行動を是認する方向に向かうことですね。大体の人が、聖書だの、教会だのには興味を持たないのが普通です。「お金とられるんだろう」「お酒や、タバコがやれないと聞いたよ」という人もいます。以前、明らかに不品行を常習としていた婦人が、私に「私は今は、男がいるから、教会には行けません」と笑いながら言いました。

ただどうであれ、主の御心の方向に進むことは、よことです。出来るなら、疑いを抱きつつではなく、本当に信頼して、御心の方向に進むのがいいでしょう。しかし私は、自分が洗礼を受けた時のことも、覚えていますが、やはり「受けない」と「受ける」を比較すると、やっぱり「受ける」の方が、妥当だという思いがありましたね。その頃、確かに「アブラハム・リンカーンもクリスチャンだったし、まあ、いっか」という思いが、勝ったのですね。100%分かってから、納得してから、などと言っていたらチャンスはないでしょう。だから、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるもの」なのです。

そういう姿勢は、その後の態度にも言えます。つまり第二ポイントは、「実際に、ちょっと見えたその後の、少ない、あるいはプログレスを、『これは過程だから、結果に目を留めてはいけないんだ、その過程の一部を担わせていただけることが感謝なんだと』、その遅いプログレスを気にしない信仰を持つ」ということです。

  テキストは、「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです」といいます。

  しばしばこの教会では申しますが、「アブラハム」という名前は、「ラハム」が「民」で、「アブ」が「父」、つまり「民の父」という意味です。「民の父」などと、申しますと、非常に壮大であります。そして「ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天に星のように、また海ベの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです」と書いてありますが、このアブラハムの時代は、やっと一人を生み出すだけでも、相当苦労しているのです。つまり、「天に星」「海ベの数えきれない砂」などという表現で、その民を数えることは、笑い話であります。しかし、私はこのアブラハムのストーリーから、非常に慰めを受けるのです。

  私たちの働きは、実にささやかな働きです、ある人たちから比べるなら。例えば、先々週の牧師会に来たゲストの、Steve Clifford という牧師のやっている、

Westgate Community Church の成長から比べるなら、「一体、何をやってるのですか」と言われそうですし、アメリカ人の主体の牧師会では、実際そう言われたこともありました。Clifford 牧師のところでは、 7年で4000人から集う教会になったそうです。「本当かいな」と思ってしまいます。一方、これに比べると日本の教会のプログレスは、いかな事にも遅いですね。それを無理をして、主の御心にそぐわないことをしてまでも、早く沢山が集まる教会にしようとする愚かな人たちもおります。そしてある程度までは、成長しますが、そういう成長のしかたは、主の御心に沿っていないことが多いので、しばしばひっくり返ることが多いのですね。

  私など、日本へ行くと、「あなた方は、成長していない」と言われることがあります。そう言う人は、タイム・テーブルで殆ど現実的ではない目標を立て、それに達していないと、「成長がない」と言うのですね。皇室などでは、雅子妃殿下には女のお子さまが一人ですから、取り巻きの見る目が厳しいというような噂を読んだことがあります。それは惨い話です。確かに、あの世界では男系のお世継ぎが必要なのでしょうが、(現在は秋篠宮家に男子がお生まれになっている。) 子供が何人生まれるか、男子が生まれるか、女子が生まれるか、そういうことは、神の御手の中にあるのです。男女の産み分けも、将来はコントロールできるようになるかも知れませんが、私は、それは御心ではないと思います。

 本日午後、独立自主教会の総会をもちます。北アメリカで最初の、日系ソブレン・アッセンブリー・オブ・ゴッドです。これを「なんだ、こんな小さな群れ」という風に捉える人と、「ここまで来るのに22年もかかっているとしても、最初は、無かったのでしょう?そしてこれが最初の日系ソブレン・アッセンブリー教会なのでしょう?グレート・アチーブメントじゃありませんか。第一、これまで無かったということは、難しかったので、誰もやらなかったと言えますね。それが、困難な中にも、こうしてソブレン教会になったというのは、素晴らしいプログレスではありませんか。おめでとう」と言う人と、二つに別れるでしょう。大体、大きな名誉というものは、もしかしたら自分が生きている間には見られないことがしばしばあるのです。いまでこそ、父祖アブラハムなどと言いますが、あの当時は、アブラムシ程度にしか考えられていなかったでしょう。つまりどこにでもいる、何も変哲もないおじいさんです。ただ、主の声を聞き分けて、それに従って、一歩ずつ歩んでいたことが光るのです。

  私は皆さんの信仰でも、そう思います。御心に従って、もう一歩前へ出る信仰を身につけてください。アブラハムという人は、ある時には、疑いも抱いた我々と同じ人間です。サラとの間に自分の子供が生まれないものですから、ハガルに入ったので、イシュマエルが生まれます。あれがそもそも、イスラエルとアラブの争いの元でしょう。ただ、基本的には、彼には「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた(創世記15:6)」 という信仰があったのですね。

  最後に覚えていただきたいのは、ゆっくりでもいつも踏み出す信仰があれば、長続きしますし、やがて大きな喜びにつながるということです。

  「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです」 と、つまり離れなかったですね。

  「聖霊のバプテスマを受けて、一時は本当に燃えていた」人でも、「その後、すっかり後退して教会もいかなくなり、後退し続け、最後は異教の習慣で葬式をなさいました」 という人もいます。教会に来続けているという人は、たとえ遅れてきても、来ない人よりは、信仰があると思います。什一献金がなかなか出来なくて、お賽銭献金しか出来ない人でも、し続ける人は、献金をまったくしない人より信仰があります。聖書をなかなか読まない人でも、やっとこさのことでもヨハネ3:16 が言えるようになれば、一歩前進です。

  ジェーン・オースチンは、「汝の心の庭に、忍耐を植えよ。その根は苦くても、その実は甘い」と言ったと伝えられています。目に見えるところが、小さいので、あるいは少ないからと言って、失望してはいけません。出入りの激しいアメリカの教会です。この夏は、特に激しかったですね。結局、帰国した人、別の地方に引っ越した人が、私達の教会関係で、合計十人抜けました。そういう目に見えるところで動かされるより、自分の信仰を、一歩前に進めるとき、完成もみえてきます。

  完成とはなんでしょう? 信仰を全うしてこの世を終えることです。パウロだって、「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです」と言いました。途中で止める人は、こうは言えません。聖書は、「事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです」と言います。「先生が、だんだん歳をとってきたし、シニアー・ホームなどを始めるものですから、天国のはなしなんかして…・我々はまだ早いからいいですよ」などと言わないでください。

  イエスさまの主要なメッセージは、神の国の到来です。神の国、天国は永遠ですから、それを手に入れる方法は、いつも覚えておく必要があります。

  それは、一歩、一歩、信仰の歩みを、前に進めることです。早く成長し、早く進む人もいますが、遅い人もおります。立ち止まってななかな前へ出ない人もいます。しかし、後退しないでください。のろくても、結果が見えなくても、あるいは地上における信仰の成果が、あまりにも小さくても、信じ続ける信仰が大切です。「神は彼らのために都を用意しておられました」を、信じ続けて、一歩でも前に向かって、歩み続けることです。

  祝福をいのります。