2007年10月28日

『輝く星になるために』 ダニエル 12:1−4


12:1 その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。

12:2 地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。

12:3 思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。

12:4 ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。」

 いくら私達の教会に「星」が入っていると言っても、「輝く星になる」などというなら、「死んでからの話ですか?」と言われそうです。しかし確かに「死」に関係しています。大体の皆さんは、私よりうんと若いから、「死」などということは考えることはないかと思いますが、「死」というのは、人間の終末に関係しています。そしてこの「輝く星になるために」という意味は、その個人の「死」にいたるまでの行き方に関係しています。そして個人の「死」に至るまでの生き方が、この世の終末において、その個人の永遠性を決めるのです。永遠の命か、永遠の滅びかです。このダニエル書は、この時代にあって、驚くべき多くの部分を、この世の終末に費やしている書であります。

  ルカの福音書の23章に、イエス様と一緒に十字架に架かった強盗の話が出ていますが、あの中の一人は確かにイエス様を信じて救われましたが、彼の場合はまさに滑り込みセーフだったのですね。今は、ワールド・シリーズをやっていますが、野球なら滑り込みセーフも面白いかも知れませんが、あの十字架上の強盗の救いはお恵みで、憐れみです。少なくとも恵みを受けて信じた者たちは、それ以後、その恵み無駄にせず、永遠の命につなげる道をしっかり歩みたいものです。

  この世には永遠に続く終わりがあります。ですからどんな厳しい状況でも、その永遠を思って福音を伝えるべきです。

  ダニエルの時代というのは、捕囚の時代です。それは非常に困難な時代であったと言ってもよいでしょう。

  「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る」とあります。これはこの時代にあっても、最終的な、この世の終末の苦難を示しています。

  実はこれに先立つ11章では、ペルシャとギリシャの戦いが記されています。バビロンの後に、ペルシャが権力を握りますが、その後、ギリシャのアレクサンドロスが、権力を握ります。ペルシャのクロスの時に、エルサレム帰還を許されますが、その後イスラエルは、ギリシャのアレクサンドロス王とその影響下にあったエジプトのプトレマイオスなどによって、苦しめられます。旧約聖書には外典というのがあって、その外典は私達プロテスタントのクリスチャンは聖書とは見ておりませんが、その外典の一つであるマカビー書と呼ばれる書物などを見ますと、その時代のイスラエル人たちの苦労がわかります。特にこの時代、つまり旧約聖書の預言が消え、イエス様に至るまでの大体400年位は、中間時代と呼びますが、このマカビー書などは、この時代の様子を知らせてくれる貴重な資料としては価値があります。その中に出てくる、ある母親などは、時の支配者から穢れた肉を食べよと言われても、決して食べないという理由で、一日のうちに全部の子供を、殺されたと記されています。この母親は、永遠を考えているのですね。このあたりの話になりますと、とてもあの、すぐに偶像礼拝に走ったイスラエル面影はありません。  

  地上の一時的な困難から、永遠に至る困難を乗り越える術を学ぶべきです。

  普通人間というのは、状況がどうであれ、目先のことにしか目が行かなくなる傾向があります。厳しい状況になれば、人のことなど構っちゃいられないという人が多いと思いますが、いかがでしょう。

  アメリカは寄付をするということにかけては、莫大なお金が動きます。特に教会の献金というのは、全寄付の40%、その額10兆円以上と言われています。税控除の対象になるので、税金で持っていかれるなら、寄付にしてしまおうと言うわけです。これまで最高の寄付をした人は、ご存知ビル・ゲイツ氏ですが、その献金はビル・ゲイツ財団というところにしたのですから、まだその使い道は、多少ゲイツ氏がコントロールできます。しかし稼ぎすぎても、結局は一人では使い切れないのです。

  ゲイツ氏の献金は額が大きいのでビックリしますが、献金というのは、永遠を思ってしない限り続かないと思います。その点多くのクリスチャン達は実に立派です。何も自分の得にならない、ただひたすらキリストの栄光のためにという訳で、献げ続けているからです。

  イエス様は、お金持ちの人が、「永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか(マルコ10:17)」と尋ねてきた時に何と言われたでしょう。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい(10:21)」と言われたのです。「マイクロ・ソフトの株を全部貧しい人たちに与えなさい」と言われたら、彼はどうするでしょう。イエス様が「あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金した(ルカ21:4)」と言われるように、余裕のある時は出来るし、その額も大きいから、案外誇っていられるのです。しかし、同じルカ21章のまずしいやもめの献金の態度は、「乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです」というものです。献金の価値は、額の大きさより、残っている額によって、また、それが永遠に向いているかどうかで計られると思います。

  どこに目をおいているか、永遠の世界か、現実の世界かです。現実の世界だけが目的の人は、現実の世界がちょっと厳しくなると、もう永遠の世界などには目を向けなくなりがちです。

  あの時代、アウシュビッツでは一人の脱走企て者に対して、無作為で十人のユダヤ人が見せしめで死刑になったそうです。一人が脱走を企て捕まり、十人が処刑されることになりました。その一人は「私には家族があるんだ。死ぬわけにはいかない」と哀願しました。その時、コルベ神父は「私には家族はありません。家族のあるあなたが生きなさい」と死刑にされるユダヤ人の代わりになって死んだのでした。

  先週やって来たイランの牧師ジョン・バヤティー師によれば、イラン・アッセンブリーのメフディ・ディバジ牧師は、先にほかのクリスチャンを逃がして、あの国に留まっていたので、殉教したのでした。

  ポイントは、困難な状況になっても、永遠に目を向けることを忘れず、神に造られた人間として名誉を捨ててはならなということです。どんなに若い人でも、終末に向かって進んでいるのです。この世的に余裕がある人も、厳しい状況にある人も、この世が終末に向かっているように、終末に向かっています。

  「国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる」というのは、この世の終末です。「かつてなかったほどの苦難の時」というのは、「反キリスト」による迫害でしょう。この地上の困難に耐えられない人、あるいは、どんな時にも永遠を思うという訓練が出来ていない人は、この迫害に耐えられないでしょう。つまり簡単に、信仰を捨てる可能性が大きいでしょう。

  「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに」とあります。これは1テサロニケの手紙に記されていることと同じで、キリストにあって死んだ者も、そうでない者も、一度生き返らされるのですね。人は「死んだらおしまい。だから生きている間は、楽しく」と考えがちですが、地上の生涯を終えても、永遠に続く歩みがあると信じるなら、おのずとこの限られた地上の生き方も変わってくるでしょう。「永遠のいのち」と「永遠の忌み(滅び)」に分かれるのです。そして「永遠のいのち」の方に行く人は、「あの書にしるされている者」なのです。

  黙示録20:12-13には、「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。」とありますが、それです。黙示録では、「いのちの書」となっています。最近、教会でよく歌う、「御座の前に立つその時」という歌は、この聖句がヒントになっています。

  どうするか? 「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる」とあります。ここに、「輝く星になるために」という説教タイトルのヒントがあります。「多くの者を義とした者」とは、何でしょう。これは、多くの人たちに、義の道を伝えた者、すなわち「伝道」であります。キリスト教終末論は、宣教論と密接なつながりをもっています。イエス様は、「まず父を葬らせに行かせて下さい」と言った人に、「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい(ルカ9:60)」と言われました。パウロも、その最後に「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい(2テモテ4-2)」と申しました。これも終末的です。

  してみると、「多くの者を義とした者」すなわち、多くに伝道するということが、輝く星になる秘訣だと言えましょう。

  考えてみれば、クリスチャン的視点から見れば、何と言っても、輝いて見える人は、伝道熱心な人ですね。最近では、「イケメン」という言葉があるそうですね。「いけてるMen」 だとか、「いけてる面相」の男だとか、言われますが、ブランドものに弱かった、若乃花と離婚した前の奥様は、イケメンにも弱かったようで、離婚前にすでに11歳も年下の青年と不倫をしていたと、ニュースは報じています。ご主人も、問題ありとも言われており、どっちもこっちもかもしれませんが、要は視点を現実の世界にだけしか置いていない人と、永遠に目を向ける人とは違うのです。イケメンの青木堅治君か、キムタク君か知りませんが、永遠を見つめるクリスチャン女性なら、彼らになんら輝きを認めないでしょう。

  言葉遣いに語弊があるかもしれませんが、「クリスチャンが、伝道ということを忘れたら、ロクなことはない」と言うことは本当です。まず伝道したことのない人は、伝道を試みてごらんなさい。サタンは、クリスチャンが多少出来ても、「まあ、1%くらいは仕方がないだろう。彼らもそれなりにやっているんだから…」と思っているでしょう。しかし、その1%が、本気で伝道に力を入れ始めたら、サタンは困ります。

  伝道してらんなさい、自分がいかに無力かわかります。「宗教の話はやめてよ」と言われて、ある人達は、まずシュンとなるでしょうね。聖霊さまのパワーを必要とするでしょう。そのためには祈らねばならないと思うでしょう。実際に、ちょっとでも伝えて見ると、「これはどうなの?」「あれはどうなの?」といわれて、自分がいかに聖書を知らないかを知るでしょう。もっと聖書を読むようになるでしょう。日ごろの生活が、福音伝道に大きく影響することは言うまでもありません。不倫や、不品行などしている暇があるわけがありません。礼拝や祈祷会に行く時間はないけど、あっちやこっちに遊びに行く時間はあるなどということも、普通クリスチャン的な輝きのある人には、考えられないことです。

  キリストの肢体の一部である皆さん方の使命は、伝道にあることを、終末的見地からもう一度覚えましょう。人間は、死において一番語るでしょう。「私は滑り込みセーフくらいでいいですから」と、その永遠のいのちの尊さを知っていて、輝くことを遠慮して、自分の好みに従って生きるなら、それもいのちの書に記されるでしょう。

  困難な時であっても、永遠を命を慕うことを忘れないようにしましょう。そして輝く星になるために、この地上に生きている間は、しっかりと、自分の能力に従って伝道に励みましょう。

  祈りましょう。