2007年11月4日

『サマリアの女』 ヨハネ4:7−19


4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。

4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。

4:9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」・・ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。・・

4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。

4:12 あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」

4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。

4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

4:15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」

4:17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。

4:18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」

4:19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。

  マザー・テレサの好きな聖書の話が、この『サマリヤの女』の話だと、彼女の自伝に書いてありましたが、私も正直この話が好きです。確かに、イエス様の話の中で、病が癒された話や、悪霊に憑かれた人が解放された話も沢山出ていますが、このサマリヤの女の話は、純粋に何の見返りもないのに、イエス様を信じている点に素晴らしさがあるのです。

  アメリカでは献金は税控除の対象になります。しかしこれは全く何もリターンとしてのお金ではない場合に限られます。教会の何かを借りたとか、牧師に何か個人的なことを手伝ってもらったという場合は、「使用料」とか「お礼」とかであっても、献金として扱いません。
  癒された人が、その癒しのみ業を通してイエス様を信じることは、素晴らしいことです。願わくは、我々の教会でも、そういうしるしや不思議、奇跡が現れたらと願います。ですから私達は病気の人の癒しのために祈ります。悪霊に憑かれた人の解放のために祈ります。しかし覚えていただきたいのは、顕著な現象、しるし、奇跡というのは上から来るのです。人間のhealer がいる訳ではありません。また祈って求めることは大切ですが、どれだけ断食したらとか、どれだけ徹夜したらということが、癒しや奇跡を引き起こすのでもありません。それらはあくまで主からの恵であり、主からのギフトであります。ですから、そういうしるしや奇跡が顕著な教会とは、「ハレルヤ」と共に喜びます。しかし、しるしや奇跡が現れないなら、それは祝福がないとは考えません。 私共は、そういうしるしや奇跡は、御心に従って必ず行われると信じています。ただ、そういうしるしや不思議が行われないとしても、私達はイエス様を主と信じます。イエス様は、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです(ヨハネ20:29)」と言われたではありませんか。

   「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」というのは、『論語』に出てくる孔子の言葉として、日本でも、あまりにも有名ですが、これはつまり道を知らないうちは、死にきれないという風にも考えられます。私は自分の体験からも、多くの青年の救われてくるデータからも、若いうちが「人生いかに送るべきか」などというラディカルな問いについては考える良い機会だろうと思います。あとそういうことについて考える可能性がある時期というのは、人生の晩年でしょう。

  人は人としていかに生きるかを捜しているのです。それはあるのですから、それを見出すべきです。

  主に若い人々は、いかに生きるべきかということについて考えると思いますが、大体は既成の路線に乗ります。そして「これでいいのだろうか」と悩むのはこの時代だろうと思います。昔、読んだトゥルナイゼンという学者の「牧会学」という本に、この時代は、人生の危機的状況が続く時代と説明がなされていました。「どこの大学に行くのか」「どの学部に入るのか」「卒業して何をするのか」「どこに就職するのか」「誰にめぐり合うのか」「誰と結婚するのか」「子供が出来ると、その子を、どう育てるのか」 …・もう人生では、大切な決断をいくつもしなければならない時期が、この若い時期に集中しています。ですからこの次期に、しっかりした道を知っていないと、やがて右往左往することになります。ことに今日のように、ありとあらゆる真の道とは似つかわぬ、ネガティブな情報が氾濫している社会では、極めて簡単にそのネガティブな流れに乗ってしまいがちです。

  このテキストに記されている、サマリヤの女はその顕著な例です。この婦人は病気でもありません。明日食べる物がないとか、着るものがなくて凍えそうだという訳でもありません。虚しさを感じていたのでしょう。それは、水を汲みに来たこの婦人に、イエス様が、「「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」といわれた時、直ちに、「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい」と言ったことからも知れます。

  この婦人の生活の様子は、主の問いに「夫はありません」と言ったあと、主が、「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです」と言われたことからも知られます。つまり聖書的にみたらふしだらな婦人です。

  しかし昨今では、こういう人は珍しくありませんね。確かに夫婦の間で、セックスは大切な部分でしょう。しかし最初からそういう可能性を度外視して結婚する人もおります。すばらしい絵と詩を書かれる富弘さんも、結婚なさっています。私は詳しくは知りませんが、おそらくセックス・ライフなどは、殆ど最初から考えておいでにならなかったでしょう。しかし献身的な奥様と、幸いな夫婦生活をしておられます。

  普通のリプロダクションのプロセスが難しい夫婦には、子人口受精などということも行われております。夫婦の交わりで一番大切なものは、主にある交わりであります。何故、この婦人は、五人も夫を取り替えたのでしょうか? いわゆる「とっかえひっかえ」で、これまでに五人の夫がいたのですが全部ダメで、今いる人は同棲でしょうか。こういう生活は虚しいのですね。

  60年代の人ですが、しかし今日でも哲学者のように、よく話題になる方で、ボブ・ディランという歌手がいます。彼の歌で「Like a rolling stone」というのがあります。そこですっかり落ちぶれてしまって昔の勢いも無くなった婦人に対して、「How does it feel How does it feel To be without a home Like a complete unknown Like a rolling stone?」 と歌う時、それは男も女も、いかに生きるべきか、道を見出せないでいる人をさしているように思えます。

  ここまでひどくはないとしても、まず普通の考えでは、「いい(贅沢な)暮らしがしたい」「楽な仕事がいい」「おいしい仕事がいい」などと考えるのが普通になっています。昔は教員などといったら、「でも・しか」先生と言われた時代もありました。私の卒業する頃でも、地方の役所などというところは、人気のない職場でした。しかし今日、そういう職場は非常に人気があります。教育というのは崇高な仕事です。地方行政に心血を注ぐということも尊い仕事です。しかしそういう使命観からではなく、どちらかと言えば安定し、給料もよくて、おいしい仕事というイメージから、その仕事に就くというのでは、そし仕事の質も、疑問詞がつくかもしれません。そしてそういう態度で仕事をしていると、やがて彼らは、「これでよかったのかしら?」と感じるときが来るでしょうね。やがて彼らの霊も 「How does it feel How does it feel To be without a home Like a complete unknown Like a rolling stone?」 という運命になるのです。

  イエス様は先にも申しましたように、この女に「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」といわれました。何故、イエス様がこう言えるか、それはイエス様は自らも、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです(ヨハネ14:6)」と言われたように、彼自身が道だからです。

  この「私が」の意味は、「私」も、one of them という意味ではありません。「私だけが」の意味です。ですから、日本の一休禅師の歌には、「分け登る 麓(ふもと)の道は多けれど 同じ高嶺の 月を見るかな」というのがあるそうですが、あれは低い山の場合で、高い山に登るには普通、可能なルートはそう多くはない、ましてや真理という「月」に向かうルートなどは一本しかないと解説した人がおりました。

  結局この婦人も、自分の思うがままに良かれと思って生きてきたこの生活には満足していなかったのです。それはその内に、命の水、尽きない水が流れていなかったからです。これは、この女性が、ふしだらな生活をしていたから、という風に考えるべきではありません。要するにその心の内に、主がおいでにならないなら、いつでも、どんなに真面目にやっているようでも、そこには虚しさが残るのです。

  ですからパウロは、「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。(1コリント10:31)」と申しました。「これをしたら主が喜んで下さるだろうか?」と考えてみてください。このサマリヤの婦人の場合、こういう生活では喜ばれるはずがありません。主は悲しんでおられるでしょう。「何をするにも」ですから、不品行をやっていたり、同棲をしていたりでは、喜ばれないでしょう。

  お料理をする時も、子育てに勤しむときも、勉強する時も、仕事に向かうときも、何をするにも、「主よ、これでいいですね?」と尋ねてみてください。礼拝に行く時も、礼拝を休む時も、聖書を読むときも、読まないときも、祈るときも、祈らない時も、「主よ、これでいいですね?」と尋ねてみてください。主に喜ばれる生活、すなわち神の栄光を現すことが出来る生活は、いつも、主が「それでよろしい」と言われている、という確信がある生活でしょう。

  そういう主がおいでにならない場合は、「主よ、どうぞ私の霊の内に入って住んでください」とお願いしてください。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする(黙示録3:20)」とありますから、あなたが心の扉を開くなら、入って下さいます。

  こうして、キリストの栄光のために生きるようになると、パウロのように、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。(ピリピ1:21)」と言う様に、死すらも、受け入れられるようになるのです。

  私は子供たちを教育する時、 “For His glory” を何度教えたか分かりません。「勉強しなさい」とも言いました。しかし、「いい大学に入るため」とか、「いい給料を貰うため」などとは決して申しませんでした。言ったことは、いつも “For His glory” でした。

  お分かりになったでしょうか? 虚しさを感じておいでではありませんか? イエス様なしで、尚 「虚しさなど感じていない」と強弁なさるなら、「We’ll see.」 と申し上げます。人間は誰でも、神によって造られているので、この方のもとに帰るまで、決して平安はないのです。

  この婦人は、主に出会ったでしょうね。そして主を受け入れたでしょうね。ここからが本当の人生の始まりです。この方と共に行く限り、もう二度と虚しさという渇きに、苛まれることはないでしょう。なぜなら、彼こそが、生ける命の水の川だからです。

  あなたが、この生ける命の水の川を、自分のものとなさって、虚しさという渇きから、永遠に解放されるようにお勧めします。

  祈りましょう。