2007年11月11日
『ザアカイ』 ルカ 19:1〜9
先週に引き続いて、いわゆる超自然的な奇跡とか癒しとかいうような形でなく、イエス様を信じた人を紹介します。前にも話しましたように、癒しとか奇跡を見てイエス様を信じた人たちはおりますが、そういう癒しや奇跡を見たり体験しても、信じない人もおります。それを主が癒して下さったと受け取らない人も、つまり癒しを通してでも活ける神との関連付けが出来ない人も、中にはいるのですね。例えば、「殆ど死ぬ」という時に助けられたのなら、その後はその助けてくれたお方に、徹底して従うのが普通でしょう。しかし、癒されると、「ああよかった」で、直ぐに癒してくださった方のことを忘れてしまう人も、いるのです。癒しや奇跡や不思議はすばらしい祝福でしょうが、何も見えるところの奇跡が起こらなくても、イエス様を信じる、つまりこのイエス様を信じ続けるという内面の変化が一番素晴らしいですし、外に見える悩みがなくても、すべての人は、そういう内面の癒しが必要なのです。ただ、この内面の悩みは、かなり悪性ですから、気がつかない場合が多いのです。
今朝の話は皆さんよくご存知のザアカイです。確かにザアカイは背が低かったという外面の悩みらしきものはありました。しかしイエス様は、そういう彼の悩みを癒されたでしょうか?よく説教では、彼の背が低かったので、「チビだ」と言ってバカにされていたというアプローチがなされることがあります。それは可能性はありますが、背の高さのことはザアカイの場合、そんなに悩みであったとは思えません。事実、彼はイエス様に背を高くはしてもらっていません。
彼は孤独だったのです。孤独というのは、周りに人がいないという意味ではないのです。心を許せる友がいないと言うか、信頼できる人がいなかったのでしょう。そしてその原因は、何かというと、彼のお金に対する姿勢だったでしょう。
イエスさまは真実な友です。ですからお金持ちになることの虚しさにきづいて真実の友をもつことを選ぶべきです。
第一に覚えていただきたいのは、これは聖書をひもとかなくても分かると思いまが、そのレベルに差はあるにせよ、世の人々は総じて、金持ちになりたがる傾向があります。パウロは「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります(1テモテ6:9)」と教えていますが、ここではすでに十分な富豪だけでなく、「なりたがる人たち」とあるように、現在貧しくても、そういう思いで生きている人たちをも含んでいます。これはもう、程度の差こそあれ、まず普遍的ではないかと思います。ですから、あなたがそういう思いで日々を送っているのなら、今はそう豊かでない、むしろ貧しい人でも、「誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります」。 そういう風に、陥っているいるかいないかを知る簡単な方法は、その人の目が、どちらを向いているかということです。主ですか?それともお金ですか?
一方、十分に経済的には豊かで、あるいはどちらかといえばお金持ちの部類に入る人でも、その目がお金に向いていないで、主に向いている人は、誘惑や罠に陥らず、人を滅ぼす破滅ではなく、命に入れられ、賢明でコを高める多くのよい働きをいたします。
例えば同じ40時間働いても、仕事によっては、非常に高給になる仕事もあれば、最低賃金という仕事もあります。ファーストフード。ショップのレジを週60時間やっていても、サンホゼで家を持つことは出来ないでしょう。しかしコンピューターの会社で40時間働くとか、病院で医師として40時間働くとか、ですと話は変わります。これはもうどの仕事に就くかによって、どちらがよりお金持ちになれるか決まってしまいます。しかしどちらの仕事をしていても、「お金持ちになりたがる人たち」と、そうではない人たちがいるのですね。
Tさんはクパティーノというお金持ちの多い所の銀行で働いています。彼女によれば一枚のペイ・チェックがミリオンを超えるものをデポする人がいるそうです。いつか私は、この地方にシニアー・ホームのために家具を買いに行きました。まだ30代位の若い、インドの人だと言いましたがで、その家が「ヒュージ」で、超豪華な家でした。私は思わず、「どんな仕事をしてるのですか?」と尋ねると、彼はサラっと「コンピューター関連」と言いました。ただこういう家に住んでいても、必ずしもお金に目が向いていない人もいます。
その目がお金のほうには向いていないことを証明する、もっと分かりやすい方法は、これがお金のことですから、什一献金をしているかどうかをチェックすることでしょう。聖書は実に単純で分かりやすいことを教えていますね。Tさんの銀行にデポしに来た人の、ミリオンのチェックからすれば、一回十万ドル以上、月2回で20万ドル以上の什一献金を教会にすれば、(慈善団体とか、学校とか、災害の見舞金として寄付するのは、什一献金に充当しません。そういうところに献げたい時は、まず教会に什一を献げたあと、献げましょう。)そして献げたあと、原則的には、あとの残りのお金でメルセデスを買っても、ヒュージ・ハウスに住んでも、それはOKだと思います。
ただ、収入の十分の一と言うのは最低基準でしょう。アッセンブリー教団は世界宣教に非常に貢献していますが、信徒の献げる什一献金だけで、世界200の国々あるいは地域に、2600人以上の宣教師を送り出すことは到底出来ません。什一献金のほかに、コミットした宣教献金をしている、非常に信仰深い人たちがいるのです。さらに、会堂を買ったり、建てたりする建築献金もしている人達が殆どですから、普通は教会の伝道、あるいは管理などの通常オペレーションにまわる什一献金だけで、これだけの宣教師を送り出せるはずがありません。要するに十分の一以上献げているのでしょうね。
「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します」というような献げ方をする人たちがいるのです。これは収入の十分の一などと言ったものではありません。しかし人々は、本当に喜び感謝するなら、収入の十分の一などではない額を献げるのですね。例えば、「死ぬ」と思っていた病から癒されたら、「サンキュー」で済むでしょうか?
二番目に覚えたいのは、お金持ちになっても、その心に主がおいでににならなければ、満足は得られない、むしろ儲ければ儲けるほど孤独を感じるということです。そして、ある人達は、それには耐えられないのです。ただ、みんながみんなザアカイのように感じるかどうかは分かりません。その点、ザアカイは選ばれていたのでしょう。
ザアカイは税金取りの頭でしたし、「だれからでも、私がだまし取った物は」と書いてあるように、かなりいい加減に税金を集めていたのでしょう。当時のイスラエルの徴税システムは、取税人の胸先三寸で税金が徴収できたようです。ですから彼には今日のIRS職員の月々の決まった給料と言ったものではない収入が入ったはずです。一方、その同胞イスラエルから徴収した税は、ローマの方に流れるわけですから、これは売国奴として嫌われたのですね。お金持ちになったが、心を許せる友はいなかった…これが当時のザアカイの状況だったと思います。彼に奥様やお子さんがあったのかどうかは分かりません。もしかしたら、ここまで孤独を感じていたのは、離婚したとか、あるいは相当な歳になっても結婚相手がいなかったのかもしれません。
ある人達は、クリスチャンと言われる人達でさえ「お金持ちの方がいいに決まっている。孤独は辛いだって? それは貧乏人のたわ言よ」と言うかも知れません。けれども、主がその中心においでにならないお金持ちが、どれほど孤独で、惨めで、辛いことであるかが分からないのは、あなたのうちにも主がおいでになるかどうかということも考えになったほうがいいと思います。
イエスさまは、「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。(ルカ18:25)」と言われました。これはイエス様に、「永遠のいのちを受けるにはどうしたらいいのか」と、尋ねた役人の話、という文脈から語られておりますから、主がその心の内においでにならない金持ちの話です。大体「金持ち」という響きは、どちらかと言えば悪い、ケチなイメージではありませんか。「主にあって豊かな人」というと、非常に豊かないい感じがします。主にあって豊かな人にはなってください。教会も、お金が必要です。主にあって経済的にも豊かな人になって、自らの意志で、喜んで、沢山献げて下さい。本当に、主にあって豊かにされます。
最後に覚えていただきたいことは、金持ちで孤独な人でも、求めている人のところには、主が来て友となって下さるということです。つまりそういう人でも、求めない人もおりますから、そういう人のところには主は来てくださらないでしょうね。そう福音の安売りはありません。求める人は、その心を主に明け渡す準備の出来ている人です。先の永遠の命のことを尋ねた役人にイエス様は、「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい(18:22)」というプロポジションを出されました。彼は、それは出来なかったですね。まだお金の方に目が向いていたので、その心を主に明け渡せなかったのです。彼は、選ばれていなかったのでしょう。
ザアカイは、「金持ち」だったのです。しかし、選ばれていました。何故なら、そういう同胞を裏切ってまでも金持ちになったその生活、おそらく信頼できる友もいなかったその生活が、本物の人生だとは思えなかったのでしょう。ですから、聞いていた評判のイエス様が、そこを通られると言うことを聞いて、彼もイエス様を見に来ていたのでしょう。
そこへイエス様がお通りになって、イチジク桑の木からイエス様を見ていたザアカイに、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言われたのです。
ここで分かるのは、1.イエス様は神ですから、孤独感に苛まれている人、そして真の友を求めている人をご存知だということです。2.そういう人には自ら近づいて声をかけられるということです。これは選ばれている人でしょうね。3.そして「あなたの家に泊まる」と言うことで、非常に近い友となることを宣言なさるということです。
何が起こったでしょう?あの金持ちで、お金のためには売国奴と言われても、金を儲け続けていた彼は、「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」と変わったのです。
かつてNHKのアナウンサーをしておられた、鈴木健二という方の『気くばりのすすめ』という本に、「ケチな人はダメ」と書いてありました。金持ちは総じてケチです。ケチだから金持ちになれるのでしょう。例えば、税込みで100ドルの食事をしたら、どれだけチップを置くか…・(普通は15%は置きますが)。 豊かな人は、「チップ…ええっと、20ドル紙幣しかないなあ、まあいいっか」と言って、20ドル置きます。ところがケチな人は、彼らも一応礼儀は知っていますから、チップは置きますが、まず慇懃に、「100ドルと言っても、税が、7.62ドルで,フードの代金は、92.38ドルですね。チップは、フードに対してつけるでしょう?えーと、それでは…」と言いながら、「92ドル38セントの15%か…」とか言いながら電卓をだして「13.85セントか…・」。正確には13.857で普通お店の場合は、13.86セントですが、こういうケチな客は、13.85しか出さないです。しかも14ドルは出さないで、コインがクオーター三つしかないと、「おおい誰かダイム持ってないか」などとやっています。ウェトレス達は、「ケチはもう来るな。ファースト・フードの店へでも行け」と、言っていることでしょう。
献金でも同じです。主に献げるのでしょう? ケチケチする献金は、値打ちがなくなります。本当に変えられると、ザアカイのマナー、「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」になるのです。だから普通は、什一にはならない、10%以上の献金になります。
これは蛇足ですが、ケチは女の子からも嫌われるそうですから、特にこれから結婚しようとしている独身の男性は気をつけましょう。
主が来て下さって、友となってくださると、心が豊かにされ、ケチが豊かにされるのです。さらに、「きょう、救いがこの家に来ました」とあるのは、トータルな救いの意味で、こういう人に「永遠のいのち」が与えれるのです。
どうぞこの真実な友である、イエス様を、あなたの心の内に迎え入れて、永遠の命を持った本物の豊かな人になってください。
祈りましょう。