2007年11月25日

『良きサマリヤ人のたとえ』 ルカ 10:25〜37

 10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」

10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」

10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」

10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。

10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、

10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。

10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

  口で「愛しています」というのと、実際に愛することは、違うということは、お分かりになると思います。あるいは、「あの人は『愛している』と言ったのに、あの人の愛とは、一体どういう愛だったのでしょう」と思った人もあるかと思います。

  いつの時代でも男女は、愛し合います。それは素晴らしいことです。そして結ばれます。それもおめでたいことです。ところが、しばしばその愛は、途中で終わってしまいます。聖書で言う本当の愛とは、永遠なはずです。つまりそういう人の愛は本当の愛ではなかったのでしょう。永遠の愛というのは、神の愛、アガペーの愛です。

  ヨハネというイエス様のお弟子さんは、「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです(1ヨハネ4:7-8)」と申しました。つまり永遠の愛は、神から出ていいるので、本当の愛のある者は神を知っている、つまり神を知っているものには愛があるし、神が分かるという風に捉えることが出来ましょう。裏を返せば、神を知らない者は、愛を知らないということです。

  しかし神を知っているという者は、どうしたら具体的に、愛ある行動をとることが出来るか、イエス様は律法学者に譬えをお話になりました。それが有名な「良きサマリヤ人の譬」です。

  この譬の背景を少し知っておく必要があります。まず、この被害者は、ユダヤ人という設定です。そして祭司というのは、ユダヤ人の祭司です。またレビ人というのは、イスラエル12部族の一つで、この族の人達は祭儀を取り仕切る人達で、当然ユダヤ人です。

  一方、サマリヤ人と言うのは、BC722に、アッシリヤという国に、滅ぼされた北イスラエル王国に住んでいた人達です。その時アッシリヤは、北イスラエルを滅ぼして、主だった人達を、アッシリヤに連れて行ってしまいました。しかし中にはそこに残された人達がいました。当時のアッシリヤは住民政策として、その北イスラエルに、アッシリヤの人々を送り込みました。それで北イスラエルの人々は、ユダヤ人としての血の純血が損なわれてしまったのです。

  イエス様の時代には、そういう血の純血が損なわれた人達、つまりサマリヤ人に、純粋種のユダヤ人は口も聞かなかったようです。ユダヤ人達は、サマリヤ人達を見下げていました。ユダヤ人は、このサマリヤ人を、いわゆる、別のカテゴリーの人々として、相手にしなかったのです。しかしユダヤ人である、イエス様は、この自分とは全く関係の無い者のために命という犠牲を払って愛を示されました。そこから学ぶことは、私たちも本当に愛するというなら、自分のベネフィットにならないことに対しても犠牲を払うということです。それが、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということになるのです。

  まず覚えていただきたいのは、サマリヤ人は、全く関係ない人、むしろ敵対している人にも、近寄って行ったということです。これはまさに、イエス様の心ですね。イエス様は今日、イエス様のことを、「関係ない」とか、「宗教には近づかないほうがいい」などと言って、イエス様を避けている人々にも、近寄って下さるのです。皆さん方の中に、困っている人がいますか?主はあなたに近寄ってくださっています。

  それに対し、祭司やレビ人はどうでしょう?本来神さまの御用をする、言って見れば神に最も近い人で、愛があるはずの人です。それが、「反対側を通り過ぎて行った」とあるように、この半殺しの、重症を負っている同胞に関わることを避けているのです。つまり、「面倒なことには巻き込まれたくない」ということでしょう。

  例えばこの時、「どうしたのですか」と駆け寄れば、この被害者は「助けてくれ」と言うでしょう。その時、「ちょっと、忙しい。先を急いでおりますので、ちょっと助けてあげている時間はないのですねえ」などとは言えなくなくなります。それならば最初から関わらないほうが得と考えるのですね。自分が損になることは、したくないのです。犠牲を払わねばならないと思われることは、避けたいのです。

  横田めぐみさんが、北朝鮮工作員に拉致されてもう30年が経ちます。これを、「うちの子じゃなくてよかった」と考える日本人は、おそらく「日朝国交正常化の方が大切だ」とか、「ああいう国だから、しょうがないじゃないか」とか、能天気な言い方をなさっているのではないかと思います。確かに、我々一人一人に何が出来るか、と問われるなら、何も出来ないでしょう。しかしまず憐れみの心を持つ持つことです。それは私たち自身が、あの将軍様に対して何かが出来るわけではないでしょう。しかし出来る精一杯のことをしてあげたいですね。

   皇后様は、「なぜ私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることができなかったかとの思いを消すことができません」と言われたそうです。これは政治的発言ではないでしょう。憐れみの心を持つことです。

   クリスチャン世界でも、「面倒には巻き込まれたくない」と考える人はおります。昔、ミズーリにいた頃、学生さんでおなかを大きくした人がおりました。誰も助けませんでした。私達夫婦は、あっちでお産が出来る病院を探したり、こっちへ車を走らせたりしました。しかし、「面倒には巻き込まれたくない」と言った、いわゆるクリスチャンがおりました。

   あなたの周りに困っている人がいませんか?そういう人に対して、祭司やレビ人の態度、つまり「自分には関係ないことには、関わりたくない」という態度を示す人のうちには、神がおいでにならないでしょうし、愛もないということになります。ヨハネは、「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう(1ヨハネ3:17)」と言います。

  二番目に覚えて頂きたいことは、愛は具体的に行動するということです。憐れみの心を持つ者は、具体的な行動に移ります。近寄って、様子をみて、「ああ、これはだめだ。それじゃ、さようなら」はないでしょう。サマリヤ人は、近寄ったばかりではありません、「助けてくれ」と言われて、「傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった」とあります。ヨハネは「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです(1ヨハネ3:16)」と言います。

  イエス様の行動は、どんな行動だったでしょう?ことに福音書の大部分を占める、イエス様の公生涯は、行動です。憐れみ、祈る、慰める、励ます、癒す、悪霊を追い出すと言ったことです。そしてこの行動が原因で、どれくらいご自身が危険な目に遭っておられることでしょう。ある時は、人々が「立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした(ルカ4:29)」ことさえありました。

  「愛する」という行動は、イエス様が誤解されたように、しばしば誤解されることがあります。何故かというと、おそらく愛の表現の仕方が半端じゃないからだと思います。いい加減な愛の人は、嫉妬するのですね。

  この「具体的に行動する」という段階になると、特に、自分に関係のない人達だったら、避けたいと思うでしょう。しかし、本当の愛というのは、まったく関係のない人達に対して、その愛の実践が出来るかどうかに関わっています。何も自分の得になるわけではありません。

  宣教師に献げる時、私たちはその宣教師が働いて、その国のクリスチャンが増えていくとき、「今度は彼らからも、私達のために献金してもらおう」などと、見返りを期待しませんね。 イエス様は、「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか(マタイ5:46)」と言われます。いかに自分とはかかわりのない人達に、損得を考えないで行動を起こせるかということです。ヨハネは、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです(1ヨハネ3;16)」と言って、この愛の輪が広がっていくことを勧めておられます。愛は、自分とは関係のない人に対しても、あるいは自分の損になる場合でも、行動します。

  最後に覚えていただきたいことは、本当に愛するということは、その場限りでなく、後々まで続くということです。サマリヤ人は、「次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』」と申しました。

  このずっと面倒見るという考え方は、結婚などでは大切な考え方でしょう。「あのときは、愛を示したが、今はもうない」では、困ります。愛は、「死が二人を別つ時まで」純粋であるべきです。

  神がその一人子を十字架に架かけて、死なせるほどにこの世を愛されたことは、偉大な愛の示し方でしたが、神はそれっきりになさいませんでした。神は聖霊様を送って、この聖霊様によって、その愛を、いつまでもいつまでも人々が分かるように支援なさっています。

  また『医龍』という番組が始まりました。我々夫婦はあの番組のファンです。前のシリーズの中で、朝田という外科医が、「大きな手術になればなるほど、術後の管理、あるいはその後のケアのために、内科医は忍耐強く働くのです」という趣旨のセリフがありました。これに対して、野口という教授は、「とにかく生きてさえ手術室から出せばいい。術後に死んだのなら、なんとでも言いわけがつく」というタイプの人でした。

  「伝道大会で手を挙げて、決心して救われたら、それでもういい」という訳がありません。救いというのは、トータルです。ある時の決心も大切ですが、その後、信仰をなくしてしまっては意味がありません。地上の生涯を終える時まで、一人の魂が養われるには必ず教会が必要です。ジョン・カルビンは、「教会の外には救いはない」と申しましたが、この点からも、カルビンの指摘は正解でしょう。自分だけではありません、その子供そのまた子供、世代を超えて、愛は継続していくのです。だから愛は、永遠なのです。

   まず困っている人の問題に目をそむけず、憐れみの心を持って、近づきましょう。そして行動を、起こしましょう。さらに長くフォローできる愛を示しましょう。イエス様は、この自分とは全く関係の無い者のために、むしろ敵するもののために命という犠牲を払って愛を示されました。ですから私たちも本当に愛するというなら、この世的には全く自分のベネフィットにならないということに対してでも、犠牲を払うものとなりましょう。