2008年1月1日
『十字架を語る』 ルカ23:20−43
23:20 ピラトは、イエスを釈放しようと思って、彼らに、もう一度呼びかけた。
23:21 しかし、彼らは叫び続けて、「十字架だ。十字架につけろ。」と言った。
23:22 しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」
23:23 ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。
23:24 ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告した。
23:25 すなわち、暴動と人殺しのかどで牢にはいっていた男を願いどおりに釈放し、イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。
23:26 彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。
23:27 大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。
23:28 しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。
23:29 なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ。』と言う日が来るのですから。
23:30 そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ。』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ。』と言い始めます。
23:31 彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。」
23:32 ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。
23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
23:36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
23:37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。
23:38 「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
来年の御言葉と、目標について、暮れに家内と二人で祈っておりましたら、奇しくも一致を見て、「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません(ガラテヤ6:14)」といたしました。同時に、「伝道」という方策についても、一致を見ました。結局、キリスト教にとって十字架というのは、いつの時代にも変わらない価値とメッセージだということです。
何年か前に、私ども夫婦は、故豊留博士が提唱なさった、「ネームレス運動」という伝道方法を勉強したことがありまし。しかしその時は、私達夫婦がまず一致出来ませんでした。理由については、もう話すのはよしましょう。しかし今は、この方策をもうちょっと確かめてみようということで、一致しているのです。
豊留博士の、伝道方法は、「十字架物語法」と言います。その方法に従って、お話を進めます。
まず、「あなたはイエス・キリストに関心がおありですか?」と切り出し、「ない」と言ったら、「どうしてですか?」「どうして関心がないのに、クリスマスを祝うのですか?」「神なるイエス様は、あなたのためにこの地上に来られたと、キリスト教は教えますが、それにたいして、なんの反応もありませんか?」「信じるものは救われる。信じないものは滅びると聖書は、教えますが、それについてもなんの反応もないですか?」などという問いを投げかけ、耳の伝道、つまり相手の話を聞くことに精を出すのです。
「それではとりあえず、話を聞こう」と言ったら…・・これは、聞いてくれる訳ですから、そこから「十字架物語法」を展開していくというのです。
今朝、教会へ来ている人は、少なくとも来ているのですから、聞く準備が出来ている人だと理解しています。
テキストの23:20-23 を見てください。
「ピラトは、イエスを釈放しようと思って、彼らに、もう一度呼びかけた。しかし、彼らは叫び続けて、『十字架だ。十字架につけろ。』と言った。しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。『あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。』 ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。」
ここでまず、ポイント1は、異邦のローマ帝国から遣わされているピラトという人が、調べた上で、イエス様には死に値するような罪はないということです。ところが、これはポイント2 ですが、 それにも関わらず、「彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した」のです。これはもうムチャクチャです。人間の罪深さであります。
次に テキストの23:27-30 を見ますと、「大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。『エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。なぜなら人々が、(不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ。)と言う日が来るのですから。そのとき、人々は山に向かって、(われわれの上に倒れかかってくれ。)と言い、丘に向かって、(われわれをおおってくれ。)と言い始めます』」 とあります。
これは ポイント3 ですが、 神のさばきがあるということです。紙は愛の方ですが、同時に義なるかたです。この世の不正を、決してそのままにしておく方ではありません。
人間は、死ねば必ずハデスか、パラダイスに行くのです。これは永遠の御国ではりません。ルカ16章にラザロと金持ちの話がありますが、ラザロは、アブラハムのふところとも考えられる、パラダイスにいますが、金持ちはハデスにいます。人間は死んだらおしまいではありません。霊はなくなりません。そして不信仰な者達は、ハデスで最後の審判で、永遠の地獄に投げ込まれる日を、苦しみながら待っているのです。
私達が伝道に対して、どうしてこうもしゃにむにならねばならないかは、この事実を考えても当然でしょう。愛する人、親や、子供や、友人や、親戚、ご近所、会社の人、同胞、…彼らがハデスから地獄に落ちてもいいと考えますか?それはひとえに、「信じない」という罪のためであります。
次のテキストの23:34 を見てください。そこには「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈っておられます。ポイント4 ですが、それは「神の赦し」があるということです。
ところが23:39 では、「十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、『たはキリストではないか。自分と私たちを救え。』と言った」とあります。
ポイント5 ですが、神の子が赦しを提供なさっているのに、 そこには性懲りもない人間の姿がよく現れています。安部譲治 「壁の中の性懲りもない面々」という本がありました。刑務所に入る人は、「もう来るなよ」と言われても、また来ることが多いそうです。私の好きな浪曲の、森の石松は 「バカは死ななきゃ、なおらねえ」と言われたものです。実際は死んでも直らないのです。「イエス様のもとに来なさい」と何度言われたことでしょう。「信じてごらんなさい」と何度勧められたことでしょう。そのたびごとに、「よく分からない」「またいつか」「関係ない」などと、はぐらかして来たことでしょう。これはこの犯罪人の態度、つまり性懲りもない、人間の態度なのです。
続いて、23-40-43を見ますと、「ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。『おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。』 そして言った。『イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。』 イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」 とあります。 ポイント6として、そこには、「悔い改めた人間」の姿を見ます。同じ、二人とも死刑にされて死にましたが、先にも申しましたように、二人の霊の行き先は、違います。先の一人はハデスです。しかし、23:43
を見ると、「イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」といわれたように、後の犯罪人は、イエス様と共にlパラダイスに行ったのです。そこで ポイント7 ですが、そのパラダイスは無代価の賜物としてのイエス・キリストによる救いだということです。
あなたは悔い改めて、イエス・キリストを呼び求めることをすべきであります。
24:1-7 には、
24:1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。 24:2
見ると、石が墓からわきにころがしてあった。 24:3 はいって見ると、主イエスのからだはなかった。 24:4 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。 24:5
恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。 24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 24:7
人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」 とあります。
つまりポイント8 として覚えていただきたいのは、「イエスさまは生きておられる」ということです。つまり、死んでおられるのではないのです。
さらに24:49-53には、
24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」 24:50
それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。 24:51 そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。 24:52 彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、24:53
いつも宮にいて神をほめたたえていた。
とあります。ポイント9 として、「今は、主は天に帰られたので、見ることは出来ませんが、約束の聖霊さまを通して、知ることが出来る」と言うことです。
ヨハネ1:12には、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」とあります。最後の ポイント10
として、「あなたはイエス・キリストを受け入れなければなりません」ということを申し上げたいのです。
それは難しいことではありません。黙示録3;20 には、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」とあります。
「…そうか…そうなんだ…」と思い出したら、それはそれは聖霊さまが、あなたの心の扉を開いておられます。是非、心を大きく開いて、イエス様を受け入れましょう。クリスチャンになることは難しいことではありません。ただ信じたらいいのです。そこから新しい人生が始まります。
祈りましょう。