2008年1月6日
『なぜ『今』語らねばならないのか』 ルカ16:19−31
16:19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20
ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、
16:21
金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
16:22
さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16:23
その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
16:24
彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
16:25
アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
16:26
そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』
16:27
彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
16:28
私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
16:29
しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
16:30
彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
16:31
アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」
今朝の話は、皆さんよくご存知の「ラザロと金持ち」の話です。このお話を通して、皆さんに何故私達は、今、福音を語らねばならないということを知っていただきたいのです。
生きている間に、イエス様を救い主と信じないなら、永遠の滅びになってしまうのです。ですから私達は、今、人々に福音を語る必要があるのです。
日本とアメリカの埋葬の方式は、随分違います。日本では恐らく今では、火葬にすることが法律化されているのではないかと思います。(よく分かりません。) 私は田舎で育ちましたが、私のオバアチャンの死んだ時代(今から30年前)までは、そのまま土葬でした。アメリカの場合はいまでも、普通はそのまま埋葬です。その棺は大体ステンレス製ですし、その棺をそのまま埋葬するのではなく、まずその棺が入る大きなコンクリートの箱の中にいれ、それにコンクリートのフタをして、キチンとシールして埋葬しますから、日本のように棺もろとも腐り果てて土に還るということはなかなかないでしょう。特に乾燥しているカリフォルニアなどでは、おそらく主が再びおいでになるまで遺体はなくならないで、ミイラにでもなっているかも知れません。
けれども誤解して欲しくないのは、そのミイラが栄光の体として復活するのではないということです。ある人達は、それが復活すると考えている節があります。そんなことがあるはずがありません。それならこれまで信仰者として死んだ、無数の人たちは、殆ど土に還っているのですから、彼らは復活できないことになります。ヨセミテや、太平洋に遺灰を散布した人も、あるいは医学の発展のためにと、献体して若い医学生たちの解剖の材料になった遺体も、その死体には、その人そのものの霊は無いのです。それは肉体の滅びだけです。
1コリント16章で、「ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」と言われている時、肉体は滅んでいても、霊は生きていることを表しています。そしてその霊が、朽ちない栄光の体を着て復活するのです。
ですから、ステンレスのどんな立派で強い棺に入れられても、遺体は遺体で、そこにはその人の霊は無いのです。それでは、霊はどこにあるか? それがこの話の教えているところです。
人間は死んだら、灰になっておしまいではありません。死んだら必ず、パラダイスかハデスに行くのです。このテキストでは、パラダイスはアブラハムのふところと呼ばれています。ASVの英語聖書ではハデスは、英語の聖書の多くはヘルとなっています。
さて、このテキストでは、お金持ちはノン・クリスチャンを、ラザロはクリスチャンを代表しています。ハデスは、とても人が行くところではありませんね。さすがの贅沢をした金持ちも、アブラハムに、「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません」と叫びますが、「子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです」と言われてしまいます。
これは死んで、彼がハデスに行った後に気がついたのです。しかし、死んでからでは遅いのですね。ハデスとパラダイスは、死んだ後、それぞれの霊の行くところであって、そこは相互交通が出来ないのですね。
金持ちは「せめて」と思って、「父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」といいますが、アブラハムに「彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです」といわれます。これは今日では、聖書と受け取ってよいでしょう。金持ちは、必死に、そんな書いたものではなくて、実際生き返った人の方が効果があると思って、「いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません」と言いますが、アブラハムは、「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」と言います。
実際、人間は罪深くて、神の御子が死んで復活さなっても信じないのが普通です。今頃、数多くの生前ノン・クリスチャンだった人たちが、ハデスでこの金持ちと同じように、「ああ、信じておけば良かった」「ああ、誰かパラダイスから戻って、身内の者たちには、こんなところに来るな、と言ってくれる人がいたらいいのに」とい思っていることでしょう。
私達には聖書があります。その聖書を信じるなら、この金持ちの悲劇は防げるのです。教会では、繰り返し、繰り返し、福音が語られています。しかし彼らが信じないだけです。ただ、私たちクリスチャンにとっての悲しみは、あまりにもこの死の向こうの悲劇に気がついていない人が多いということです。
パウロは、ローマ6:23で、「罪から来る報酬は死です」と言います。この「死」が、我々が日常体験する死とは違うことは明らかです。クリスチャンだって、ノン・クリスチャンだって、皆神の前には罪人ですから、死ぬのです。しかし、クリスチャンも、ノン・クリスチャンも霊はなくなりません。ただ、このローマ6:23の後半には、「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」とあります。つまり、死の向こうには永遠の命があります。言葉を変えるなら、永遠の命をいただけなかった者には、永遠の死があるということです。
「俺は、永遠の死でケッコー」と豪語する人がおりますが、その苦しさは、どこかのインチキ宗教の高温のお風呂に入って修行する程度ではないでしょう。しかも、その苦悩は終るのではなく、「死が彼らから逃げていく(黙示録9:6)」のでしょう。つまり、永遠に苦しむことになるのです。
実は、昨年暮れ、85歳になる私の父が入院しました。ちょっと危なかったのですが、今は持ち直しました。良かった。しかし年齢が年齢ですから、常識的に考えれば後があんまり無いのです。そして彼はまだ信仰告白していないのです。
ですから、福音伝達は緊急なのです。しかし、こればっかりは、私達の力では如何ともしがたいのです。どうするか?それは、繰り返し、繰り返し、祈りながら語り以外にありません。1コリント12:3 には「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません」とあります。ですから私達は、聖霊さまが、父の心に働きかけて、「俺も信じよう」と決心するまで、ただ語るだけです。
よく、「私は彼には話した。それでも彼は聞かなかった。だから私には責任はない」と言う、言い方をする人たちがおります。この考え方は、「適」でもあり「否」でもあります。人間とは、皆が皆、そんなに物分りがよい人ばかりでしょうか? 例えば最近の親は、例えば子供が「おもらし」をしたと言って、「何度言ったら分かるのよ」としかりつけ、場合によっては殺してしまうという愚かな親がいるようです。例えば約束した時間に遅れる人がいるとします。「時間に遅れないように」と、何度も何度も注意しても分からない人がいます。あまり聞き分けがないので、きつく叱ります。しかしこういう人を叱ったら、今の時代、まずダメですね。叱れば大体関係が断たれてしまいます。忍耐強く、祈って待って教えていかねばなりません。いつまで待つか・・、それは相手が分かるまで祈って待って教えていくのです。
「話たけど、彼が信じないから、それは彼の責任」…確かにそうでしょう。しかし、主ならそう言われるでしょうか?今信じている私達は、それほど聞き分けが良かったでしょうか?
私達は、その伝道対象が死ぬまで、語り続けるのです。あの十字架で死んだ一人の強盗を考えてください。彼はその最後で、イエス様のところへ来ました。諦めてはいけないのです。
私の母は、35年祈って語った末、ついに主に捕らえられ、3年前にイエス様を信じました。父は85歳ですが、勿論、まだ諦めてはいません。
しかし、年齢が高い人だけが、危機的状況にあるのではありません。私の息子が住んでいる宝塚を走る JR福知山線で、2005年の9月のある朝、あの事故が起こると誰が予想したでしょう。一挙に100人以上が、鉄道事故で命を落とすと、誰が考えたでしょう。勿論、若い人も沢山いました。だれもが、自分の命については分からないのです。ですから、「今」が大切なのです。
それではどうするか? これもまた、何も新しいことはありません。パウロは、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです(ローマ10:17)」と言います。何もテクニックではありません。ただ、語ることです。何を語るか、それは何と言っても、中心のメッセージである、十字架のことばでしょう。やはりパウロは、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。』知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか(1コリント1:18-20」と申しました。
私がミズーリで神学校にいた時、ある先生が、「君達の使っているギリシャ語や、ヘブル語のレキシコン、あれはジャーマン・スカラー達の仕事だよ。おそらく彼らの方が、聖書知識については、君たちより相当上だよ。でも知っていることと、信じていることは違うということを覚えておきなさい」と言いました。十字架に、むごたらしく架かってお死にになったイエス様が、救い主であるというメッセージは、信仰がなければなかなか語れません。
サタンは、それを上手に使って、クリスチャンの心に、「そんなバカな話をすると、人に笑われるよ」とか、「そんな話は、今する時じゃないと思うよ」とか、「彼らに任せておけばいいじゃないか」とか、語りかけて何とか、語らせないようにいたします。人に、十字架を語ることは勇気がいるのです。だからサタンは、なんとかクリスチャンにこれを語らせないように働くのです。何故かと言うと、十字架のことばには力があるし、人を救いに導くからです。
さてラザロと金持ちの話から、随分、伝道論の話になりましたが、今朝の説教の意図は、そこにあります。何故、今、語らねばならないか? それは多くの人々が、非常な危険な状況にあるからです。死が臨むと、もう救われるチャンスがありません。
しかし救いは、主の聖霊の働きです。私達は、忍耐を持って、祈りつつ、愚かといわれようと、何と言われようと、「今」の大切さを覚えつつ、十字架のメッセージを語り続けようではありませんか?