2008年1月20日

『聖霊を汚す罪』 マルコ3:20−30


3:20 イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。

3:21 イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ。」と言う人たちがいたからである。

3:22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている。」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」とも言った。

3:23 そこでイエスは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。

3:24 もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。

3:25 また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。

3:26 サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。

3:27 確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。

3:28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。

3:29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」

3:30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている。」と言っていたからである。

    私達ペンテコステの説教者は、しばしば聖霊を受ける、ということを強調します。こういう時に、聖霊と言う場合、それは聖霊のバプテスマということをさしています。けれども今朝は、その聖霊のバプテスマのことではなく、私たちを赦しに導く聖霊さまの働きと、それを汚す罪について知って、主を崇めたいと思います。

  ご存知のように、聖霊さまは三位一体の神の第三位格であります。イエス様は、「人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます」と言われました。これは大変な罪です。ここでいわれているように、赦されない罪があるなら、私たちは、聖霊さまについて慎重に対処せねばなりませんね。

  それではここで、それを言われている律法学者達の問題は何だったのでしょう。彼らはイエス様のことを、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」と言いましたし、また「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言いました。ベルゼブルとは、マタイ12:24 では、「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ」と説明されているように、ベルゼブルも悪霊なのです。悪霊は悪霊に協力するでしょうけれども、敵対することはないでしょう。もし悪霊を追い出す霊がいたら、それは正しい霊と言うべきであって、ベルゼブル(悪霊の頭)であるはずがないのです。ですから、イエス様は、「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう」と言われたのです。

  何故この学者達がこういうことを言ったかですが、やはりそれは妬みでしょう。人々の間で、力ある業や、奇跡をなさるイエス様に、宗教家として自分達のお株を奪われるのではないかという恐れを感じたのでしょう。

  イエス様は、さらに24−27節で、彼らの問題点を指摘なさいます。「もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません

  現在でも内戦のある国が沢山あります。あまり知られていませんが、アフリカなどには、国の主導権争いでいくつかの国ではシリアスな内戦があります。昨年でしたが、わたしの知り合いのアメリカ人牧師が、アフリカのシエラレオーネを訪問した時の話をしてくれました。シエラレオーネなどというくにが、どこにあるかだって、日本人の大多数は知らないでしょう。そんな名前の国があったことすら知らないのではないかと思います。西アフリカの小国です。このシエラレオーネというアフリカの小国は、国が一致していれば、産出するダイヤの原石などで、そこそこにやっていける国だと思いますが、このダイヤの利権をめぐって、主導権争いで、おびただしい人々の血が流されました。この国は、世界最短の平均寿命の国として知られています。確か男性の場合へ医金寿命は、40歳以下だったと思います。内紛が一番の問題です。

  勿論家庭でもそうです。夫婦が、あるいは親子が、いがみ合っていては、家庭に喜びや平安はありませんね。人を罪の悲しみにしばりつけるサタンをやっつけてこそ、人は本当に幸せになれるのです。イエス様がなさっていた御業は、まさにそういう仕事であります。そして今、すでに十字架で完全に「強い人V.27)」を縛り上げられてしまっておられるのです。つまり十字架で死なれたのみならず、死んだ後復活なさったイエス様は、人間にとって最も手強い敵である死に対して、完全に勝利して下さっているのです。

   この時、イエス様は、律法学者たちに、「人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます」と言われました。ある人達は、「私のしたことは聖霊を汚す罪だったのかしら。そうならもう赦されないのかしら」と考えるかも知れませんが、そうではなくここの、「聖霊を汚す者」の「汚す」の部分のギリシャ語原典は、ポイント・アクションではなく、「聖霊を汚した、そして汚している、このまま汚し続けていると。いつまでも赦されず、やがて永遠の罪に定められるだろう」という意味です。

  聖霊さまはあなたに罪の赦し、とキリストによる救いをもたらす唯一のお方です。ですから、この方を汚したら、拒絶したりしては、もう赦しも救いもないわけです。聖書は言います。「神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ。』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません」と言います。律法学者達の罪は、この聖霊さまに対する罪だったのです。イエス様の警告は、「まことに、あなたがたに告げます」で始まっています。聖書の中で、この言葉が語られる時は、特に注意する必要があると理解していいでしょう。

  聖霊を汚す罪以外に、赦されない罪はありません。考えてごらんなさい、ダビデは人妻と関係を持ち、その女が身篭ると、夫を騙してついに殺してしまいます(2 サムエル12:13, 詩篇51:31)。しかし真実な悔い改めは、彼に赦しをもたらしました。 ルカ7章に出てくる「多くの罪(7:47)」を犯した女も赦されました。おそらくこの「多くの罪」は、ふしだらな罪でありましょう。しかも彼女も、主を愛して赦されました。いわゆる「放蕩息子(ルカ15章)」も遊女と遊んだのち、おちぶれて、そして我に返って「父」のみもとに帰りました。「父」なる神は、赦しに富むお方ですから、赦されるのです。三度もイエス様を「知らない」と拒んだあのペテロですら、赦されました(マタイ26:74-75, ルカ21:31-32, ヨハネ21:15-17)。あの偉大な使徒パウロもまた、人殺しに加担した人でした。しかしキリストとの劇的な出会いで、真実に悔い改めましたから、偉大な使徒となりえたのです(使徒9;1, 1 コリント15:9-10, ピリピ3:6)。

  あなたが何をなさっているか私は知りません。もしかしたら主が悲しまれる罪を犯しておられるかもしれません。主はすべてご存知です。ある人は、主の許されない性のとりこになっているかも知れません。ある方は、体を蝕む、酒やタバコ、あるいはドラッグのとりこになっておられるかも知れません。

  テレビなどで恐ろしい犯罪に関わった人たちのご近所の人たちや、同僚をよくインタビューしているのを聞きますと、「真面目な人でしたよ」「優しい人でしたよ」「とても、そんなことをしでかすとは信じられない」という答えをよく聞きます。中々人間の内部は分かりません。しかし主の目からみたら、皆罪にまみれています。悔い改めない限り、決して喜びも平安も来ないのです。

  聖霊様は、人格です。聖霊さまは、あなたに語りかけます。大体、人は最初は、それが良いことか悪いことか分かっているのです。「子よ、罪を悔い改めなさい」「イエス様を信じるべきだよ」「ダメダメ、それは止めるべきだ」と言った、声が心に響いてきたら、それは聖霊さまの声です。その聖霊さまの声に逆らっていると、もう善悪の判断が麻痺してきます。そして聖霊に逆らい続けるようになって、悔い改めが難しくなるのですね。

  聖霊さまの声に従ってください。無視しないでください。まして律法学者のように、聖霊さまを汚す言葉をはいてはいけません。もし従わないと、「聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められ」るのです。

  聖霊さまを侮ってはなりません。アナニヤとサッピラのことを思い出してください(使徒5章)。彼らは、「誰も見ているものか、分かりゃしないさ」と夫婦揃って思いました。しかし神はご存知でした。二人はたちどころに死にました。彼らは「サタンに心を奪われ、聖霊を欺い」たのです。

  神の前に、すべての人は罪人です。あなたが特別悪いと言って、だれも非難することは出来ません。しかし聖なる聖霊さまは、罪を糾弾なさいます。そして同時に、キリストにある赦しと救いに導きます。ですから、もし聖霊さまの声を聞いたら、その声に従ってください。律法学者のように、聖霊さまを汚してはなりません。あなたが従う時、本当の平和と喜びがやってきます。

  祈りましょう。