2008年1月27日

『何をしてほしいのか』 マルコ10:46−52


10:46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。

10:47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。

10:48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。

10:49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。

10:50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。

10:51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」

10:52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

  日本で公開されているかまでは調べたことはありませんが、ニコラス・ケージと、ブリジット・フォンダの「It could happen to you.」というおかしいけど、ちょっとほろりとさせる映画があります。ニューヨーク警察のおまわりさんチャーリーに扮するニコラスと、イヴォンヌというウェイトレス役で出るブリジット・フォンダとの映画です。チャーリーはレストランでチップがなかったので、宝くじに当たったら半分をチップとしてあげると約束したのです。それが実は大当たりだったのです。どうもこの映画は、事実あったことを基に構成されているそうです。

  まあ、これは映画ですから、面白おかしく作ってあるでしょうが、私の目から見ると疑問が少なくとも二つあります。家内にそれを言うと、「あれは映画だから、しょうがないでしょう」と申します。

  私の疑問その一は、ニコラスふんするおまわりさんチャーリーに奥さんがいるのですが、何であんなに正直と言うか、優しい素敵な人格のおまわりさんが、ああいうバカ丸出しの女性を奥さんにしたのだろうかということです。しかし、あの役者も巧かった。まさにバカな女、絶対嫁にはしていはいけない女そのものですもの。これは、皆さんも注意してください。恋は盲目と申しますが、Wrong person と一緒になると、本当にひどい人生になります。

  二番目は、チャーリーは、例えお金がもとで、奥様との関係が冷えても、あそこまでイヴォンヌと親密になってはいけなかったということです。チャーリーたちの結婚生活は、その時点では続いていたからです。この国では、離婚訴訟がまだ片付いていないうちから、次の人と一緒になっている人達が、いっぱいいますが、全く倫理もモラルもあったものではありません。

  宝くじに当たるかどうかというのは、まったくまぐれです。ポイントはここです、イエス様による救いというのはまぐれでは来ないのです。あなたがそれを願う必要があります。

  イエス様は求める者に、御心に従って、癒しを与え永遠のいのちを下さる方です。ですから、私たちは、まぐれを期待するのではなく、癒されたいのなら、また永遠のいのちをいただきたいのなら、イエス様に正しく求めることが大切です。

  テキストは良く知られたお話です。イエス様がエリコという町に来られました。ところがそこに盲人がおりまして、その盲人が、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫んだのです。人々は彼を黙らせようとしましたが、イエス様が「あの人を呼んで来なさい」と言われたので、連れてこられました。その時、イエス様は、「何をしてほしいのか」と言われました。彼は、「先生。目が見えるようになることです」と言いました。テキストは、その後について、「するとイエスは、彼に言われた。『さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。』すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った」とあります。

  この話を聞いて、この世の中には、少なくとも三種類の反応を示す人がいるでしょう。

  最初の反応は、「そんなバカな話があるものか。絶対信じられるものか」という反応と、「そういうことが、その当時あったかもしれないけど、私には関係ない」という反応と、「なんと素晴らしい話でしょう。こういうことがあったのなら、今日でも起こることが期待できるでしょう。私にもそれが起こって欲しいものです」と期待する反応です。

  以上の三つの反応のうち、どれがあなたの反応に近いですか?

  日本という社会では、私の感じでは、面と向かってキリスト教に対抗的な人達と言うのは、創価学会の人達はどうか分かりませんが、大体は「まあ、お好きならどうぞ自由におやりになっていいでしょう。私は関係ありませんが…」という感じの人が多いのではないかと思います。キリスト教の人達が、しばしば言う「永遠のいのち」のことなど、ほとんど関心がありません。それは仕方がありません、彼らは分かっていないのですから。もっとも、この永遠のいのちという至上の祝福は、まぐれみたいにいただけるものではありません。

  これはもうその人のうちに主がおいでになるかどうかで、すっかり考え方が変わります。キリスト者は、イエス様を信じることで与えられる永遠のいのちの価値を知っています。けれども、覚えておいて欲しいのは、その大切な永遠のいのちにしても、自動的にいただけるものではないのです。クリスチャンの子供が自動的に、クリスチャンになって自動的に永遠のいのちをいただけるかどうか、それはないでしょう。

  そしてこの永遠のいのちは、高級車を買ったとか、大きな家を買ったとか、何かブランドの品物を持っているとかいう価値や、喜びではありませんね。むしろどちらかと言えば、そういう世の中的な喜びとは反対です。

  考えてみれば、私達の家庭は本当にそれを感じています。実は3年ほど前ですか、家内の未信者の知り合いが自殺しましたが、その婦人が最後に家内に話したことが、「結局お金の切れ目が縁の切れ目ね。みんなお金でつながっているのよ」と言ってから、「それにしても充江さんたちは、見たところお金にはあんまり縁がないみたいだけど、夫婦がうまくいってるのね。やっぱりそれが本当なのかなあ」でした。結局、彼女は真理を見出せず自殺してしまいました。

  この世の人達でも、「私は幸せですわ」と言う人はおります。けれども言えることは、この世では確かに多少良い暮らしが出来るのですが、死んだ後については皆さん、不安なのですね。人間というものは、生まれながらにして持っている考え(生得観念という)があります。そして必ず誰もが公平に総決算がなされるだろうと思うのですね。胸に手を当てて考え見ると、誰も自分が天国に行けそうもないと思うものです。それで、Wrong person やWrong god に走るのです。

  この夏、ある日本の知られた学者が、「神を信じるかどうか」という問いに、「信じておいて天国へ行かれるなら、それは儲けだから信じておこう。仮に神がいないとしても、何も損にはならないから」というような、図々しいことを、ある雑誌に書いていたのを読みました。これは、「宝くじを買っておこう。当たらなくても大して損害ではないし、当たれば儲けだから」に似ています。そんないい加減な信じ方を受け入れるような神は、イエス・キリストの神、すなわち、善悪を正しくさばく神ではなく、Wong god でしょう。

  まず真剣に解決を求めるのなら、この盲人が、「私をあわれんでくださ」と叫んだように、病気でもそうですが、自分の弱さを認めて治りたいという願いを持つことが大切です。「永遠のいのちなどというものは、どうでもいい」とか、「どうせ死の向こうには何もあやしないだろう」とか、「死んだら地獄に決まっているから」と諦めてしまっていて、「治りたい」とか、「この死の問題から可決を得たい」という積極的な思いがなければ、解決はないでしょう。

  「天国があれば儲けものだ」なんどと言っている方は、自分の向かっている永遠の死というものが、まったく分かっていないのですね。ですから、そういう安易な答え方ができるのでしょう。

  世の中には、驚くべきたくさんの霊的な盲人がおります。この霊的な盲人は、完全にサタンの思うツボになっていて、「どうにもならない」「なりゆきに任せるより仕方がない」「助けられる道がある?  ばかばかしい。あるわけがない」と思い切っています。

  バルテマイは素直にその心を表しました。この素直さが大切です。イエス様は、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)」と言われました。また、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」と約束なさっています。これらの約束を、「確かにこれは神の約束だ」と素直に信じるか、あるいは「そんなバカな」と思うかは、全くあなた次第です。

   Right personにということは、例えば、病気のいやしの場合は、他の宗教でも癒される場合があるのですね。そうすると、あたかもそれが正しい教えかのように錯覚してしまいます。確かに病気のいやされることは素晴らしいのですが、御心に従って病気を癒す方で、永遠のいのちを与えるお方が、ライト・パースンです。

  私は今、パースンと申しましたが、人となって来られたイエス様ですから、パースンと申しましたが、彼は神だからそれが可能なのです。Wrong person やwrong  god の方に引っかかると、結婚でwrong person に引っかかったよりシリアスです。

  バルテマイが、「先生。目が見えるようになることです」と叫んだことについては、そのように叫ばせてせて下さった主のお恵みでした。イエス様があなたにも、「わたしに何をしてほしいのか。」とお尋ねになっています。彼がRight  person  で Right God です。このお方、イエス様が、癒しにおいても、永遠のいのちについても、解決をお持ちのお方だという、信仰を奮い立たせてください。そして素直に、自分を見つめ、素直に、「先生。目が見えるようになることです」と申し上げましょう。

  祈ります。