2008年2月3日
『種蒔きの譬』 マルコ4:1−20
4:1 イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。
4:2 イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
4:4 蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
4:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
4:6 しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
4:7 また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。
4:8 また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」
4:9 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
4:10 さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。
4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。
4:12 それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。」
4:13 そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。
4:14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。
4:15 みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです・・みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。
4:16 同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです・・みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、
4:17 根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
4:18 もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。・・みことばを聞いてはいるが、
4:19 世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。
4:20 良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」
イエス様の譬話を聞くことは、クリスチャンではない人にとっても興味深いことだと思います。何しろ、難しそうな聖書の教理や、理解しがたい異国の文化の話を聞くより、肩がこらなくていい、ということもありましょう。けれども私たちは、いつもこのマルコの福音書の、鍵句の一つである、「天国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ(1:15)」を忘れるべきではありません。…と申しますのは、「譬話は興味深かった」で終わるべきではなく、イエス様が本当に知って欲しいと願っておられることを、知っていただきたいのです。と申しますのは、今日のお話の中に出てくる『種蒔きの譬』も、なかなか興味あるお話だからです。教会の日曜学校でもよく話される話です。しかし、改めて申しますが、私たちは『神の国』の価値を忘れるべきではありません。
『神の国』というのは、アメリカとか日本とか言った、国家のことではなく、むしろ神の支配とか、神の統治と言ったほうがいいでしょう。イエス様が、「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです(ルカ17;24)」と言われたように、神の国は、イエス様は信じる者の内にあるのです。そしてイエス様に来ていただくよう、その心を明け渡すことが、大切ですね。ですから、今こそ、心をイエス様の前に広げて、そのみ言葉を信じ受け入れるべきです。
このテキストでの講壇は、船の上です。人々は、湖岸で話を聞いたのでしょう。イエス様は、そこで四種類の地についてお語りになりました。道端、石地、いばらの中、そしてよい地です。この四種類の地に落ちた種が何を意味するかを、イエス様がお語りになったのです。それで弟子達も尋ねました(v.10)。その時イエス様は、「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです」(v.11)と言われました。
この11節の「あなたがた」と「ほかの人たち」との間には、大きな差があるのです。それは今日にも言えます。信仰者と、非信仰者との間には、決定的な差があるのです。それは、信仰者には永遠の命が約束されていますが、非信仰者には滅びしかありません。しばしば私が言います、それは1 コリント1:18のみ言葉です。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」
彼らは、ストレートに話しても分からないのですね。「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから」(マタイ7:6) です。パウロは、「キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。(2コリント6:15)」と言っています。ですから、み言葉を、聴くだけでなく受け入れ、信じることが奨励されます。
この譬は、「種まきの譬」と呼ばれていますが、種を蒔く人より、蒔かれる地の方に注目すべきです。種を蒔く人は、イエス様です。今日では、牧師や宣教師に限定されるべきではなく、すべてこの「喜びの知らせ」を伝える人は、「種を蒔く人」です。
それでは蒔かれる地について考えて見ましょう。最初の道端とは、何をさしているのでしょう? これはイエス様自身の解説にもあるように(v.15)、「サタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまう」という人です。
日本人の中には、八百万の神々があるそうで、なかなか福音が実を結びません。先進国の中で、福音宣教ということが、最も遅いのが日本でしょう。いつまでたってもクリスチャン人口は総人口の1%以下です。神々が取り巻いていて、また伝統や習慣が、なかなか人々をキリストの元へと送って来ません。サタンの霊は、人々をがんじがらめに縛っています。
けれども子供たちは、実に素直です。今も私は日曜学校で教えていますが、昔、教えていた頃、「イエス様を信じる人は?」と問うと、小学校4年くらいまでの生徒は、殆ど皆手を挙げました。これが小学校の高学年から、中学に行きますと、そうは行かなくなったものでした。様々な悪霊によって、ちょうど道端のように、すっかり踏み固められてしまうのです。ですから歳を取ってから救われるのは難しいですね。 しかし出来ないことではありません。私の母も、77歳の時にイエス様を信じましたし、80歳を過ぎてからでも、生きているなら、信仰をもつことは可能だと信じます。私の父は、今85歳です。家内の両親は93歳です。みんな、認知症になっているわけではありませんので、あきらめてはいません。
第二に、石地に落ちた種とは、どういうことでしょう。イエス様の説明では、「みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます(v.16-17)」とあります。
これは無責任と言いますか、そそっかかしい、また熱しやすくさめやすいとでもいいましょうか…こういう人は、ある時は、非常に熱心で、信仰の喜びで満たされています。しかし根がついていません。石地だからです。信仰は「若い頃は、よく教会へ通ったものです」と言った、一時的なものではありません。一生持ち続けるものです。私たちは、「信仰を持ったが、バックスライドして、そのまま死んだ」という人が、天国にいけるかどうかということについては、否定的です。信仰は、持ったら、死ぬまで持ち続けることが大切です。石地だって、土壌を交換すれば立派な、畑になるのです。土壌交換して「み言葉」を、根付かせることが大切です。
三番目の、いばらの中に落ちた種とはどういうことでしょう。これはイエス様の説明では、「みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません(v.18-19)」
これはつまり、この世の財産、地位、名誉と言ったものにとらわれている人をさすのです。彼らは本当は素晴らしい人たちなので、一生懸命信じようとするのですが、この世の誘惑と言ういばらが邪魔して成長できないのです。その地は悪くありません。ただいばらがクリスチャンとしての成長を阻むのです。
「いばらを取り除けましょう」と言うと、「それがなかなか難しいのです」という方もありましょう。確かに私たちはこの世の大きな誘惑の中に生きています。けれど結局いばらは役に立たず、個人の終末の時(死)は、水泡と化すのです。イエス様の再臨の時は、(聖書は、この世の終わりの時、もう一度イエス様がおいでになると約束している。) 信仰深く歩んだかどうかだけが問われるのであって、この世の財産や、地位、名誉などは一切関係がないのです。イエス様は、ですから「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい(マタイ19:24)」と言われました。神の国の尊さを考えれば、あなたがどちらを取るべきかは、明らかだと思います。私たちにとって、「神の国」は、永遠の命を頂いた者だけが入ることを約束された場所で、なんとしてでも手に入れなくてはならないものなのです。
私の家は農家でしたし、私も子供の時から、よく農家の仕事を手伝いました。いばらのあるところもありました。けれどもそういうところは、まず親達が、鎌や鍬で、茨を取ってくれると、よい地になったものです。イエス様を信じたら、神の国の妨げになっているものを、どんどん勇気を持って捨てましょう。そうすると成長できます。
最後に、よい地に落ちた種が出てきます。イエス様は、それを説明して、「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです」と言われました。これはみ言葉を、疑いなく受け入れて、信じる人です。「そうかなあ」という風に、思うことがあるかも知れませんが、信仰と勇気を持って、み言葉を優先する人のことです。神のみ言葉に信頼することで、愛、喜び、解決、癒しといった、見える形での結果も出るものです。
神のみ言葉のうちを生きましょう。神のみ言葉によって生きましょう。神のみ言葉のために生きましょう。私達の心のうちを、いつも聖書のみ言葉が根付き、成長するように、良い状態にしておきましょう。聖書を読むことは大切です。聖書は言います、「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。
それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。(ピリピ2;14-16)」
み言葉を受け入れてください。信じてください。そして勇気をもって、実行してください。永遠のいのちと、神の国は、必ずあなたのものです。
祈りましょう。