2008年2月24日
献金の祝福
ブログという媒体は、原理的には世界中の人が、一人の発信する情報を、見ることが出来ます。私もそのブロガーの一人ですが、
http://blogs.yahoo.co.jp/abeishihara
そのブログを通して、ざまざまな人との出会いがあります。当然クリスチャンのブログも随分あります。そして最近のクリスチャンたちが、どのように考えているかも、その記事から知ることが出来ます。
感じることは、献金に対して、日本の教会の行き方に、かなり多くのクリスチャン・ブロガーが批判的に捉えているということです。私は牧師ですから、また日本でのクリスチャン生活もありますので、多少は分かるのですが、十分の一献金に対して、かなり否定的な書き方がされていることが少なくない感じがします。
勿論、献金は強いられてするものではありませんが、さりとて、百円玉のお賽銭程度の献金で、しかも礼拝の後に、レストランで食事をして、映画を観て、買い物をして、案外余裕のある暮らしをしていて、「クリスチャンです」というのでは、その信仰は疑われるように思います。それより、神は真実な方ですから、祝福からもれるでしょうね。もしかしたら、この世的には、忠実な什一献金者より、いい暮らしが出来るかもしれませんが、この世においてでさえも、どこかでほころびが出て来るでしょう。夫婦の仲がおかしくなったり、子供が信仰から離れたり、大損をしたり、それに自分たちの信仰だって、信仰の破線に遭うかも知れません。「献金は信仰のバロメーター」という言い方が、良くなされてきましたし、その表現は、実に厳しい表現ですが、同時に事実でもあることは、多くの先輩クリスチャンたちによって裏付けられています。
私は、教会において、例えばこの文のように、あるいは説教や勉強会などにおいて、全収入十分の一の献金を教えますが、そのチャレンジを受け入れられなくて、しない人もいるかも知れません。しかし今は決して、「しなさい」と個人的に、教えることはしません。個人的に教えることも、間違いではないと思いますが、個人的に話すと、どうも「あの牧師は、金が欲しいものだから・・」とか言って非難されがちだからです。
「十分の一献金と言っても、例えば30万円の手取りで3万円も献金するのは、このご時世では、きついのです。この場合、例えば一万円にしてはまずいでしょうか?」と尋ねられたら、今の時代のクリスチャンたちの、かなりの人達が、「十分の一の規定は、旧約の規定でしょう?献金は自由が原則だから」ということで、十分の一以下の献金をすることに同意するでしょう。
例えば30万円で、3万円献げると、つまり27万円では生活がきつい、だから1万円献げて、29万円で生活がしたいと考える人は、果たして突然給料が60万円になったら、十分の一以上、つまり例えば20%の12万円位献げるでしょうか?これまで、29万円で生活していたのですから、60万から12万円献げた残りの、48万円で生活しても、うーんと楽な暮らしが出来るはずです。しかし、こういう人は、60万円の十分の一、6万円ですら、献げられないのです。
献金というものは、信仰がなければ献げられません。ですから『信仰のバロメーター』とはよく言ったものです。十分の一以上を目標とすることは妥当な目安でしょう。日本のクリスチャンの多くは、十分の一の献金以外に、建築献金とか宣教献金、各種の感謝献金など、総計にしたら、多くの名もないクリスチャンは、十分の一などという額以上に献げているはずです。神は必ず、こういうクリスチャンを祝福してくださいます。
また、ブログでは「何故、名前を書くのでしょう」というのも、よく見ます。確かにアメリカのように、税金が税控除の対象の場合は、領収証の発給のために、名前が必要ですが、日本の場合は、別に税控除の特典はありませんから、名前などなくても構わないとも感じます。
ただ、牧師や教会のサイドから考えるなら、名前があったほうがよいと思います。『管理』という言い方より、牧会的な配慮ですね。お医者さんが患者を診るとき、顔色や姿勢や、表情を見て(望診というのでしょうか?)診断をくだすより、内診をしたほうがより確かな診断が下せるでしょう。献金が信仰の程度を測るバロメーターであるなら、その献金姿勢で、牧会者は、どういう処方箋が必要か、より確かに知ることが出来るでしょう。
直接、指導しないとしても、牧会者は「○○兄が、信仰をもって、主に頼り、献金が出来るような信仰を与えてください」という風に、祈ることも出来るでしょう。
「私は、そんないくら献げているか、人に知られたくない。だから献金袋は要らない」と考える人がいたとしたら、それはそれで自由だと、少なくとも私は思います。お医者さんでも、自分を信頼せず内診をさせてくれない患者には、その望診の範囲内でしか責任はないと思います。献金袋を使わない人に対しては、そういう範囲でしか牧会の指導は出来ないということです。もしかしたら献金による祝福を知ることが出来ないかも知れないですね。献金は、「すべて信仰によらないことは、罪である。(ローマ14:23)」ともありますから決して強いられてするものではないと思います。
ただ、祝福される聖書的な根拠の一つは、よく知られた2コリント8章「苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。
私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、 聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。」
ただ、現代のクリスチャンは、ここで表現されているようなタイプの信仰のあり方に、あまり魅力を感じないみたいですね。ただ言えることは、イエス様が評価なさる立派な献金の態度は、ルカ21章にもあるように、レプタ二つと投げ入れた貧しいやもめの献金態度に表れています。そこでイエス様は「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。
みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです」といわれました。これは額ではなく、献げたパーセントを示しているように思います。
私達アッセンブリーの人間にはなじみ深い方で、すでに故人ですが、韓国にチェ・ジャシルという婦人伝道者がおりました。この方は、若い頃は非常に成功したクリスチャン事業化でした。ところが、自分が十万円くらい収入がある時、1万円献げても、当時としては献げ頭でした。それが100万円くらい収入があると、10万献げる時に、「何故、わたしばかり10万円もささげなくてはならないのか。5万円だって、私が献げ頭ではないか」と、什一を削ったのです。それからが不幸の始まりだったのです。
お金というものは、信仰と非常に密接な関係にあることは、聖書を読めば明らかです。金持ちが良い例で使われることはありません。私の言う金持ちとは、自分を楽しませるために、金持ちになろうとする人のことです。
献金袋に入れて、献げることは、会計の明確化のためにも、妥当だと思います。パウロは、「私たちは、この献金の取り扱いについて、だれからも非難されることがないように心がけています(2コリント8:20)」と書いていますが、全部匿名では、一万円札が2−3枚なくなっても、分かりはしません。確かに日本の場合は、殆ど現金献金ですから、匿名分がかなりあると思いますが、献金袋に金額が書いてあり、出来る限り、入った経路はきちんとしておくことは適切だと思います。
十分の一という基準は、確かに新約的ではありませんが、十分の一を最低基準にして、献げるなら献金の祝福に与ることが出来るでしょう。
しかしこれも、あなたの信仰によります。あなたが信仰を持って受け入れられるように祈ります。決して強いているのではありません。