2008年3月16日
『悔い改めと償い』 ルカ23:32−43
23:32 ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。
23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
23:36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
23:37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。
23:38 「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
水上勉氏の、自身の体験などを元にした「五番町夕霧楼」などを読んだりすれば、また瀬戸内寂聴さんの「恋愛の醍醐味は不倫にある」などという発言を聞いたり、かつて中尊寺の貫主だった、今東光和尚などの、おおよそ我々の感覚ですと宗教人とは思えない下品な行動で、日本の宗教界では、不道徳なことは仏教の専門と思っていましたが、昨今はキリスト教会でも、信じがたい不道徳がはびこっていまして、残念なことですが、教会が「不道徳なことで問題がある場合は、是非教会へおいで下さい」と、言うことをはばかるような事態になっています。
実は私が少しばかり関わっておりました裁判で、先日判決がありまして、私も良く知っている牧師の暴力とセクハラの事実は、その牧師が控訴をしなかったので判決は確定しました。
そしてその事実に対して、「この結果を真摯に受け止め、悔い改めをなさることを期待します」という主旨のことを、コメントしたら、ある方が「そういう考えは甘い」と、私のコメントを痛烈に批評されました。要するに悔い改めるなどということで、赦してはならない、徹底して処罰せよという意味だろと思います。その批評なさった方は、どうも別のカルカ化した教会の被害者らしく、こういう問題の指導者が徹底的に打ちのめされることを期待しているようなのです。大切な青春の一時期を、ばかげたカルト化した教会のために棒に振ったその虚しさは、分からないでもないのですが、それでもそれはもう憎しみとしかいいようがないと感じました。自らをキリスト者と自称するなら、キリスト様のお心を、もう少し分かる必要があると思います。
この方は、「悔い改める」ということと、「謝罪し、償う(賠償する)」という区別が、お分かりになっていないと思いました。
今朝のテキストは、その悔い改めと賠償の両方が明確に表わされているところです。
まず覚えていただきたいのは、私達は誰もが神の前に罪人です。ですから私達は、神の前に悔い改めるべきだということです。
このテキストの箇所は、もう何度も話しました。まだご存知ないようでしたら、ストーリーそのものを覚えていただきたいと思います。
まず最初に知っていただきたいのは、イエス様を十字架に架けたローマの兵隊達です。聖書は、「『どくろ』と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に」と言います。
死刑執行人は、普通死刑にすることを決めた人でも、そうすることを主張した人でもありません。アメリカでは裁判所の判事が判決を下しますが、有罪と決するのは陪臣員です。有罪と主張するのは検察側です。しかし彼らは執行者ではありません。判決で死刑と決まっても、知事がサインしなければ、執行されません。ですから、広範には「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」の彼らは、ただ死刑執行人だけを指すと考えることは出来ないでしょう。
この死刑執行人は、言われた命令に従っているだけです。イエス様と会った事も、もしかしたらこの時が最初だったでしょう。主は「彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と言われますが、彼らは明確に何をしているか知っています。言われた命令に従って、死刑を執行していただけです。こうやって上司の命令に従って職務を遂行している人は、世間一般では何も「彼らをお赦しください」と言われるような、悪いことをしているようには思われません。しかし主は、事実、この死刑執行人のローマの兵隊をも 赦されなければならない罪があるので、「彼らをお赦しください」と言われたのです。
そして、彼らはイエス様と二人の強盗を十字架に架けました。イエス様は別として、今度はこの二人のことを考えてみてください。彼らの一人が「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ」と言っているように、彼らは判決に従って、刑罰を受けています。死ねば、この場合刑罰は完了します。
しかし、日本の裁判でも良く聞くのは、殺人事件の被害者家族などが、「私の娘を返してください」、「母を帰してください」ということです。犯人が死ぬことで、罪の埋め合わせが出来るでしょうか?
先日のその日本の教会の裁判でも、この加害者牧師に対して、「有罪終身刑にして、刑務所に拘束し、一生社会復帰出来ないように、教会にも立ち入り出来ないようにさせればいい。法務大臣に死刑執行署名してもらい、絞首刑・電気椅子処刑されて欲しいです」と言うような、過激な意見もありました。人間が人間に課すことが出来る最高刑で、死刑以上のものはありません。確かに多くの青年の青春が、こういうおカルト的な教会で費やされたのは、虚しいことです。指導者は責任を取るべきでしょう。しかし例えば死刑判決を受けた人が死刑になって心が晴れるでしょうか?仮に加害者一族郎党が皆を腹を切って被害者にお詫びをしても、失われた人の命は返ってきませんし、今回の教会の問題のように、おカルト的教会で無駄に過ごした青春は戻って来ません。
「悔い改める」ことと、罪を償うことは別です。おそらく普通に社会生活をしている大部分の人たちは、償うようなオフェンスは犯していないと思います。それは言ってみれば、あのイエス様を十字架に架けたローマの兵隊達です。この兵隊達は、今日的に言えば、朝会社に出て行き、上司の命令に従って仕事をし、夕方帰ってくるという、極めて普通の人たちです。そういう人たちですが、「彼らをお赦しください」と言われたのは、パウロが「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない(ローマ3:10-11)」と言うように、彼らが「神を求めない」という所に原因があるのです。
一人の強盗は、「イエスに悪口を言い、『あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。』と言った」とありますが、私達人間は、「一度死ぬことが定まっているように、(ヘブル9:27)」とあるように、分かりやすく言うなら、死刑判決を受けているけれども執行猶予がついていて、今は生きていられるというだけで、やがては死ぬ存在です。そしてその間に、多くの人々は「キリスト教なんて」とか、「アーメン、ソーメン、冷ソーメン」などと言って、神なるイエス様をからかい、尊敬を払うことしません。そこまであからさまでないとしても、多くの日本人は主なるキリストに対して尊敬を払っていないことは確かです。なぜかなら、日曜に礼拝に集わないことでそれが分かります。
ところがもう一人は、「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」と言ったばかりか、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と言って、イエス様の前に懇願しています。この両者の、イエスさまに対する接し方は全然違いますね。一方はイエス様に対抗していますが、一方はイエス様の前に遜っています。
「悔い改める」ということは、イエス様に対してすることです。本当に悔い改めたなら、この世の罪の償いをすることすら、「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ」と、死刑になることをも、心から受け入れるのですね。悔い改めない人は、チャンスがあったら逃げたいと思っていますから、悔し紛れに「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」などと言うのです。
今回の日本の事件でも、あんな裁判になる前に、加害者牧師の側も早く悔い改めたなら、傷が浅くて済んだのに、頑なで悔い改めないものですから、だんだん代償が大きくなって、民事事件であっても、「法務大臣に死刑執行署名してもらい、絞首刑・電気椅子処刑されて欲しいです」などと言われるほどになるのです。しかし、いつでも言えることは、悔い改めることに遅すぎることはないと言うことです。私は今でも、この牧師が悔い改めることを願っています。
私の好きな、さだまさしさんに「償い」という歌があります。交通事故をおかして、相手を死なせてしまった青年が、毎月被害者の奥様に送金するという、実話に基づく歌です。実に7年も、「ごめんなさい、赦してください。お金で、僕のやったことは赦されないと分かっていますが、僕の誠意だと思ってお受け取り下さい」というような手紙と共に、お金を送り続けたのです。7年目に、その奥様から、手紙が届きました。「ありがとう あなたの優しい気持ちは とてもよくわかりました。だから どうぞ送金はやめて下さい。 あなたの文字を見る度に主人を思い出して辛いのです。 あなたの気持ちはわかるけど、それよりどうかもう、 あなたご自身の人生をもとに戻してあげて欲しい」という内容でした。
「手紙の中身はどうでもよかった。 それよりも、償いきれるはずもない あの人から、返事が来たのが、 ありがたくて、 ありがたくて」と続きます。「赦される」という体験ですね。この青年は、刑務所にも入りましたし、自賠責で、その被害者には保険が支払われ、償いは終っているはずでした。しかし「赦し」を期待したのです。
この二人の強盗は、自分達が犯した罪の償いはしました。数年前京都で子供達を何人も殺した人は、早々と死刑になりました。しかし最後まで「申し訳けありませんでした」はなかったそうです。それで死刑になって、帳消しになるのでしょうか?
人間は、この二人の犯罪人のように、いつかイエス様に対して、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」というサイドになるか、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」になるのです。「今更、イエス様の所に行っても仕方がないだろう」「そんなものを信じても、どうせ死ぬんだから」「まあ、今更いいよ」…エクスキューズはいろいろありましょうが、それらはみな前者と、大して変わりません。
「イエス様、随分遅くまであなたのところに来なくて申し分かりませんでした」でも、イエス様の方に来るならば、赦しに富む神は赦してくださいます。そして「死んでも生きる(ヨハネ11:25-26)」いのちを与えてくださいます。
この世の償いをすることは、きわめて当たり前です。この世の償いをせねばならない人も、そうでない方も、人には罪があるのですから、悔い改めることは必須です。悔い改めるなら、ただちにパラダイス(天国)が約束されます。
悔い改めることが大切です。悔い改めましょう。アーメン
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