越えてはならない一線

ちょっと前まで、日本ではクリスチャンを形容する場合、『敬虔なクリスチャン』などと言われたものですが、この節では、人口の1%しかいないクリスチャンにも関わらず、その中で、信じられないようなクリスチャンの、・・・・というより牧師の不道徳が、新聞を賑わすような残念な時代になりました。

  かつてラジオ牧師として、毎朝福音を語り続けておられた羽鳥明という先生がおいでになりますが、彼の話の中で、ある婦人の体験談として、こんな話があったことを覚えています。

  「私は夫や子供がある身ですが、あることがきっかけである男の人と越えてはならない一線をこえてしまいました。本当に後悔しして、もうこんなバカなことはしないと思っても、その人から電話がかかってくると、またいそいそとおめかしをして、出て行ってしまうのです。先生は私は本当に罪深い女です。私はそんな自分がいやでいやで仕方がありません。しかしどうにもならないのです。どうぞ私を助けてださい」

  まあ、古い話ですから正確ではありませんが、こんなような話だったと思います。

  その中で、「越えてはいけない一線」とは、皆さん想像できると思います。まさか、今日の人たちは、夫や子供のある婦人が、お化粧をして出て行き、夫ではない男の人と、喫茶店でコーヒーを飲んだということが、「越えてはならない一線」だとはお思いにならないでしょう。
  勿論、その持ち場立場では、その標準はより厳しくなるでしょう。ある男性の聖職者は、別にその婦人聖職者と深い関係になったのではありませんが、しばしば仕事などのことで、一緒になることが多く、時として、二人だけになることがありましたから、周りの人たちが、「あの人たちは大丈夫かしら?」と怪訝な顔をしました。奥様もハラハラしていました。

  その男性聖職者は言いました、「私達は別に罪を犯している訳ではない」と。これはおそらく、二人の間には、肉体関係はないという意味でしょう。まあ、それはそれで「一線を越えてはいない」のですが、やはり疑われるような行動をとることはまずいと思います。

  イエス様は、確かに「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(マタイ5:28)」と言われました。この意味では、人は皆姦淫を犯した者です。いくらピューリタンなクリスチャンであっても、「私は汚れた思いは抱いたことはありません」と言うなら、直ちに十戒の「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない(出エジプト20:16)」に抵触するでしょう。

  しかし、やはり「越えてはならない一線」というものがあるでしょう。そして極めて大雑把ですが、それは男女が不当な肉体関係をもつことがそれにあたると理解しておいてよいと思います。

  「心の中で情欲を持つだけの者と」「実際に肉体関係を持ってしまった者」が、主の前に同じであるはずがありません。聖書の中で、石打ちの刑に処せられた人は、実際に姦淫を犯した人だけです。

  「二人だけになって、妙な気分になってきたが、決して私は彼女に触れなかった」と言う場合、危なかったけれども、「一線を越えた」とは言い難いでしょう。

  私の好きな映画の一つ、キアヌ・リーブズの「雲の中で散歩」では、妻子あるポール・サトゥンは、ヴィクトリアに恋心を抱いて、激しく抱きしめ、激しくキスします。しかし、ハッと我に返って、「だめだ、ごめんなさい。僕には妻がいて、まだつながれているのです」と謝ります。

   これがもし日本の聖職者の場合なら、肉体関係に至っていなくても、何らかの問題になるでしょう。しかしポールの場合、「一線を越えてはいない」と言えます。
   今日は、何故こんな話をするかと申しますと、日本では、キリスト教会の牧師の不品行が大きな問題になっているからです。

  被害者の人権の問題がありますので、詳細は分かりませんが、聖公会の牧師の場合、被害者は小学校4年から高校一年まで、その不品行牧師の性の奴隷になっていたと言います。この牧師の場合は、完全に「越えてはならない一線」を越えていますが、私が関係している教会の裁判については、肉体関係という点では一線をこえていないとしても、セクハラと言う点で、牧師の行動としては、大きく一線を越えています。

  実は、来月5日に発売される、雑誌『ハーザー』に、この裁判の特集が出ます。そこに私がこの教会の牧師の問題点を書きました。どうぞこの機会に、『ハーザー』をお買い求めくださって、読んでみてください。


  世の中の性のモラルの標準は、どんどん低くなっています。しかし絶対に越えてはならない一線があります。そこを守っているなら、決して大きく踏みはずすことはなく、平和な家庭を維持できるでしょう。
  

 

2008年4月27日