2008年6月15日

『願いを起こさせ、かつ現実に至らせるのは神』 ピリピ2:13(ピリピへの手紙シリーズ)


2:13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるの は神であって、それは神のよしとされるところだからである。(口語訳)
2:13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神で あるからです。(新共同訳)
2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行 なわせてくださるのです。(新改訳)


 クリスチャン生活というのは、神に信頼し、神に期待して歩む、歩みでありま す。「生活」というのですから、「イエス様を信じた」というポイントで考えるのではなく、信じ、その後の生活にも神に信頼することが大切ですね。
世の中の人々、すなわち生けるまことの神を知らない人々は、何に信頼して、また何に期待して歩んでいるのでしょうか?
 まず考えられるのは、自分自身でしょう。自分の考えが絶対勝っていると考 えていますから、「自分に頼るのではなく、イエスさまにお任せして、…・」などと話してみても、なかなか同意する人は少ないでしょう。
シニア・ケアを始めますと、どうしてもシニアの方たちと接することが多く なります。最近、あるシニアの方のお見舞いに行きました。この方は素人目に見ても、そう長く生きられるようには見えませんでした。弱ってはおられるのですが、意識はしっかりしている方です。
 私は英語で、「xxさん、もうあんまり長くは残されていないことは御自分でもわかるでしょう?イエスさまを信じるなら、今だと思います。イエスさまを信じませんか?」とルカの福音書23章の十字架の記事を読んで、チャレンジしました。「信じるなら、救われるのです」と言うと、彼は、はっきりと「I don’t think so. 」と言いました。あまりにも明確に否定なさったので、悲しいですが、かえって気持ちがよかったです。
 自分の考えが、この人生の終末に至っても、支配しているのですね。 その「自分の考えが絶対」という考えは、どこから来るのか…それは人間が生まれながらの罪人ですから、その生まれながらの罪性が発展して、そういう人格を形成しているのでしょう。そこには、例えばこの方のように、…この方はUCバークレー出身ですが、…・UCバークレーのような、極めてリベラルな学校 の影響も作用しているかもしれませんし、この地域は、極めてリベラル色が強い地域ですから、そういう人たちとのお交わりから、そういう人格が形勢されたのかもしれません。つまり誰かの思想、自分以外のブレーンというようなものに信 頼するということも考えられるでしょう。
 あるいは、他の宗教という影響が、イエス様に来ることを妨げるかも知れません。キリスト教というと、「教」と言いますから、「教え」という意味合いが 強いですが、キリスト教は「教え」以上です。何故かなら、その「教え」の源泉 が、今もなお生きておられる方だからです。   
 仏陀も、孔子も、マホメットも、皆さん亡くなりまして、それらの教えは、 確かにすでに「教え」になっています。勿論、今は生きていらっしゃいますが、 文鮮明氏や、麻原彰晃氏も、やがてお亡くなりになります。贔屓の引き倒しのよ うに感じても、実際、イエス様だけが生きておられる神であるという事実と確信 が、キリスト者の信仰の拠り所なのです。ですから、私達は主に信頼をおくので すね。   
 さて自分の考えに信頼する人は、大概お金に拠り頼むようになりますね。   
今、日本では後期高齢者医療保険のことで、皆さん大騒ぎですね。保険料が 年金から差し引かれ、老後が心配だということです。お金がないと心配で、心配 でたまらない。けれども、「心配だ、心配だ」というお年寄りたちは、私の目か らすると、おそらく大体の方たちは、毎月かなり年金もある、また蓄えもある方 たちではないかと思います。結局こういう人は、どれだけお金があっても心配な のではないかと思います。   
 今、我が家にお二人のシニアの方がおいでになります。102才と99歳です。息 子さんたちからうかがっていますが、どう考えてもこの方たちの残された生涯で は使い切れないお金を持っておられるようです。しかし、この年齢になりますと 、もうお金を使うなどという欲もありませんし、どう使っていいのかも分からな いと思います。しかし、それでも老後(?)に十分なお金があるか、医者にかか れるのかと心配なさいます。30歳とか40歳ならともかく、80歳90歳にな って、どんな治療を期待して、それが受けられるかどうかの不安なのでしょうか 。   
 アメリカではお年寄りで、もう回復治療の望みのない患者さんは、病院には いられないのが普通です。カンヴァレッサント・ホスピタル ( Convalescent Hospital ) と呼ばれるところに移されます。そこでは、確かに (Convalescent 回復期)の 人もいますが、大体はホスピスと同じで、アメリカ人の中には、はっきりと、「 ああ、ホスピスへ移されたのね」と言う人もおります。   
 お金は、どれだけたくさん持っていても、不安の解消にはならないのです。    
 イエス様を信じるという信仰は…・まず第一歩ですが、それで終わりでは ないのです。。ヘブル11:6に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできま せん」は、ヘブル・クリスチャンに宛てて書かれた手紙で、言ってみれば、救い の信仰は持った人たちに言われているのです。   
 いわゆるクリスチャンでも、信仰が薄い人が多いのですね。 マタイ6:30 「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神は これほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらな いわけがありましょうか。信仰の薄い人たち」 これも、「信仰のない人」では ありません。マタイ8;26は、お弟子さんたちに言われたのです 「イエスは 言われた。『なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。』それから、起き上がっ て、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった」と。   
信仰を持って救われていても、いっこうに主に信頼しない人がいますね。こ れでは、信仰によって生きているとは言えないでしょう。ルカ18:27には 「人に はできない事も、神にはできる」とあります。もっと神に期待しましょう。   
 私は、クリスチャン生活を、この原則で生きてきました。日本でもアメリカ でも神学校は、主に頼って卒業させてももらいました。今から約40年前、私が 献身して牧師になると言った時には、我が家はまるで火が消えたようでした。私 は農家の跡取りで、両親やオバアチャンは、私が農家の跡を継ぐことをとても喜 んでいました。我が家は、平和と喜びにみちていました。ところが、主によって 、私に、「伝道者になるべきではないか」という志が起きたのです。両親や、'オ バアチャンの悲しみは、想像を絶するものでした。しかし私の決心は揺るぎませ んでした。そして牧師になりましたが、私はこれまで、一度もこの歩みを、後悔 したことはありません。   
 正直言って、私はその時代の若い人たちと同じように、新車(クラウン)に 乗ることが夢だったのです。ところが、その夢は、献身と共にすっかりなくなり ました。それ以来、どういうわけは、私は、われわれのようなペンテコステ派の 人は、どう思うか分かりませんが、アッシジの聖フランシスコの生き方に一番魅 力を感じるようになりました。清貧ですね。私は息子の名前を、本気でフランシ スにしようかと思ったこともありました。息子は、最近それを知って、「カモー ン、ダッド、ルークで良かったよ」と言いました。    
何故、そう思うようになったのかは分かりません。新改訳や新共同訳のテ キストによれば、「御心のままに」であります。けれども、この主に寄りすがっ て生きる、という生き方は、貧乏くじをひいたように見えますが、同時にまた素 晴らしい祝福があるという信仰でもあります。    
日本での神学校3年間は、そういう形で田舎を出ましたので、親からの仕 送りはありませんでした。しかし、多くの方々の祈りとサポートで卒業させても らいました。アメリカに来てからだってそうです。親子4人で、留学生活という のは、それは楽ではありませんでしたが、しかし「さて主はどのように私達を養 って下さるだろうか」と期待してみるほうが楽しみでした。    
娘の夫のチャールズは、信仰的にはキャロルよりはそういう経験に乏しい ので、現在でも「『トーサン、カーサンたちは、どうして生きていけるのか、全 く不思議だ』と目をパチクリさせている」と、娘が言いました。    1985年、私達はサンホゼに来る決心をしました。この世の常識的に考 えたら、クレージーでしょう。小学校3年生と1年生の子供があって、給料がい ただけるという保証の何もない仕事に就くのです。   
けれどもこの時に私の霊に来た御言葉はこれでした。   
「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせる のは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」   
 何故、そんなこの世的には、損に思えるような歩みをしたくなるのか?分か りません。 しかし言えることは、この損に思えるような歩みは、エキサイトメ ントであるばかりか、必ず守られましたし、祝福になるのです。聖霊様は神です から、神が御心のままに、願いを起こさせてくださるならば、その志は、たとえ クレージーのように思えても、必ず祝福になるという信仰を持って下さい。事実 、私達のこれまでの信仰生活は守られ、子供たちも育ち、まったく問題がありま せんでした。   
 今週の週報でもお知らせしていますが、私は今、日本の、あるスキャンダル を起こした牧師を、雑誌の中で実名で批判しています。正義だと思っています。 最近気がつきましたが、近年の日本のキリスト教の歴史の中で、現役の牧師が、 現役の牧師を、実名で批判するなどということがあっただろうかと思います。そ ういうことがなかったということは、当然ですが、批判している私にも同じ牧師 仲間から、かなり厳しい批判の目が向けられることを覚悟せなばなりません。私 は被害者側についているのですが、被害者の味方をしても、何にも得になりませ ん。殆どの牧師達は被害者のサイドにはつきませんでした。むしろそれが加害牧 師でも、自分が牧師の場合、この加害牧師に味方する人もいたのです。詳しいこ とは、私のブログを読んで下さるか、ハーザー6月号、7月号を買って読んでく ださい。   
 よくよく損を進んでやる自分だと思いますが、どういうわけだか、神は私に はそういう志を、起こさせてくださるのです。そして、それに従うことが、神の 良しとされることだという信仰もあります。何かことをなすときには、人の知恵 では計り難い、計画があることがしばしばです。   
 信仰を持った人には、か細い声でも、神が「あなたがたの内に働いて、御心 のままに望ませ、行わせて」下さいます。どうぞ聖霊さまの、働きかけに、その 志が、、この世的には、到底割が合わないように思えても、勇気をもって応答し てください。信仰を働かせてください。神は必ずあなたの人生を守るばかりでは なく、豊かに祝福してくださいます。   
祈りましょう。