Copyright: M. Abe Ishihara, Calstar Christian Church2970 Moorpark Ave. San Jose, CA 95128 USA Phone/Fax (408) 296-2480 |
19:1 それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。
19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであっ
た。
19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために
見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。
ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカ
イ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
19:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
19:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と
言ってつぶやいた。
19:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の
半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍
にして返します。」
19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブ
ラハムの子なのですから。
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
今朝も聖書の中のよく知られたお話から、御言葉を味わい主を讃えましょう。
テキストはエリコという町での出来事です。エリコはエルサレムの北東約10マイル、
ヨルダン川のそばにある町ですが、エルサレムの標高が750メートル位で、エリコの
高度が海面下約250メートルですから、その高度差は約1000メートル、エルサレムか
らですと、ずいぶん下っていくという感じになります。
私達もそこを訪問しましたが、現在このヨルダン川西岸地域は、危険につき旅行者は
行かないようです。聖書時代の町と現在のエリコはちょっと違う位置にあるらしいの
ですが、現在の町はそう立派という感じはしませんでした。しかし旧約時代からエリ
コの町は、それはちょっとしたパラダイスのようだったようです。それに加えて、あ
の偉大な建築王のヘロデ大王も、さらにその息子のアケラオも、だいぶこの町に手を
いれたようで、豪勢な冬の館が建てられており、野外劇場、競技場もあったそうで
す。ですから当時のこの町を、現在の町の感じからおしはかることは出来ません。
そこにいたのが、今朝のテキストのザアカイです。新約聖書の中で、『取税人のかし
ら』という地位が出てくるのはここだけです。当時の税金の集め方は、収税人は、収
税権をローマから買うわけで、つまりある一定の額をローマに払えば、あと集める段
階になるとかなりいいかげんであったようです。ですから、ここに出てくるザアカイ
のように取税人のかしらといわれるような人は、その権利を又貸ししていたのでしょ
う。彼の下に、取税人がいたのでしょう。税の主なものは、通商税で、輸入・輸出と
いえば少しオーヴァーですが、荷物がその収税所を通るときに、払わねばならないも
のでした。
当時の大きな収税所は、三ヶ所で、このエリコのほか、カペナウムとカイザリヤにあ
りました。面白いことに、当時にぎわっていたこれらの三つの大きな町のどれもが、
現在は廃墟なのですね。本当に当時のにぎわっていた面影はありません。
さて、そこへイエスさまの一行が来られました。ザアカイはこの方にお会いしたいと
思いましたが、背が低い彼は群集にさえぎられて、イエスさまを見ることができませ
んでした。それでいちじく桑の木に上ったのです。いちじく桑は、今日の道路並木の
ように植えられていた木と思われます。そこへイエスさまが来られて、いちじく桑の
木に上っているザアカイに「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの
家に泊まることにしてあるから」と言われたのです。
その時「ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた」ので
す。そればかりかザアカイは「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たち
に施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」と
言ったのです。
この話から。今朝皆さんに知っていただきたいことは、主は求める者のうちには
誰にでも来てくだり、その人を作り変えてくださるということです。ですから、私達
は熱心に求めるべきだということです。
まず覚えていただきたいことは、誰が今日のザアカイか?という点です。聖書
は、「彼は取税人のかしらで、金持ちであった」と言います。かしらであるというこ
とから、社会的地位がある人が今日のザアカイでしょうか?あるいは金持ちだっ
たのですから、今日でも金持ちがザアカイなのでしょうか?はたまた聖書は「背が
低かった」と言いますから、もしかしたら彼は自分が背が低いというコンプレックス
があり、つまり身体的にコンプレックスのある人が、今日のザアカイなのでしょうか
?あるいは「みなは、『あの方は罪人のところに行って客となられた』と言ってつ
ぶやいた」というのですから、ザアカイは人から嫌われていたようです。それでは親
しい友人がいない、人から嫌われている人が、今日のザアカイなのでしょうか? そ
れぞれがいくらかは関係しているかもしれませんが、決定的にそうだということは出
来ないでしょう。
今日であれ、いつの時代であれ、イエスさまのもとに、熱心に求めてくる人が、その
時のザアカイであります。
社会的地位があり、お金持ちで、お友達がいない孤独な人で、身体的に何か、コンプ
レックスがあっても、イエスさまに求めてこない人はいるものです。それはイエス様
の時代でも同じだったと思います。聖書の中で、『取税人』は罪人と同じ感じで使わ
れていますが、それではすべての取税人が、イエスさまを求めたかと申しますと、そ
うではないと思いますね。それは罪人もしかりです。
社会的地位のある人はしばしば孤独です。お金持ちもしかりです。身体的コンプレッ
クスのある人は、普通は悩みであります。しかしそういう人たちすべてがイエスさま
を求めるかというと、そうではありませんね。
確かに罪を犯した人は、罪を悔いて、その心の重荷から開放されたいと願うかもしれ
ません。しかし全部が全部そうとは限りません。いつまでたっても、目がさめない人
もいるものです。そしてどれだけ誘われても、イエスさまに目を向けない人もいるも
のです。あるいは、開放されたいと願っても、イエスさまにその願いを持ってこない
で、偶像に行く人もいますね。
テキストを見ればお分かりのように、群集がイエスさまのもとに押し寄せたのです
が、エリコの町で、このイエスさまに一番熱心にお会いしたいと願ったのは、おそら
くこのザアカイだったと思います。恥も外聞もかなぐり捨て、この方を見るためには
何でもするという気持ちだったようです。
聖書の中で、イエスさまの救いを受けるタイプの人は、このザアカイのように求めて
くる人と、ヨハネ4章のサマリヤの女のように求める必要を知らされる人とがいま
す。早いか遅いか、時間的な差だけで、どちらも心がイエス様に向かってやわらかく
なっています。
一方律法学者パリサイ人のように、心を堅く閉ざしている人は、いくらイエスさまの
ところに来ても、救いを頂くことができないのです。毎週、毎週イエスさまのおられ
る教会にやってきても、この求める心の無い人、心を開かない人は、もしかしたらエ
リコで、イエスさまのまわりに集まった群衆のようかもしれません。
それでは求めて心を開く人には、主はどうなさるでしょう。
第二に知っていただきたい事は、心を開いて求めている人には、直ちに主はきてくだ
さるということです。
聖書は「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。『ザ
アカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるか
ら』」と伝えています。
こういう箇所は、主の全能者としての神性を現している箇所と思います。主が以
前からザアカイと面識があったとは思われませんが、そのザアカイを名前で呼ばれた
のです。そして彼が求めていること、心を開いていることをご存知でしたね。主は直
ちに「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言われます。
イエスさまは「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはあり
ません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ち
たものとなるためです(ヨハネ16:24)」と言われます。
覚えていただきたいことは、神なるイエスさまは、まずあなたがどんな人間で
あっても、イエスさまを求める思いが真摯で、心を開いているなら、あなたのこれま
での生活がどんなであっても、そういうことはひとまず関知なさらないということで
す。事実、ザアカイは取税人のかしらであったのです。ローマにおべっかを言って、
同じ仲間のユダヤ人から税金をとって私服を肥やしていたわけですから、これは売国
奴だったわけです。先にも申しましたように、当時の人々は、取税人は、罪人として
捉えていたのです。ルカ18章でパリサイ人は「神よ。私はほかの人々のようにゆする
者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝
します。(11節)」と祈っているのです。どれだけ嫌われていたかがお分かりでしょ
う。
昨年、『親分はイエスさま』という映画が公開されました。これは元ヤクザの人たち
の回心の記録です。「人生やりなおせます」がメッセージです。彼らのこれまでの歩
みはめちゃめちゃでした。しかしイエスさまは、これまでの歩みは、ひとまず問われ
ません。自分がみじめだと気づいて、主を求める真摯な思いと、主を受け入れる柔ら
かな心が大切です。イエス様は、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれで
も、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とと
もに食事をし、彼もわたしとともに食事をする(黙示3:20 )」と言われます。
それは主が、直ちに「あなたの家に泊まることにしてあるから」といわれたことから
も知られます。これを言えば、多くの人が「あの方は罪人のところに行って客となら
れた」と言って、自分の人格を疑われる、すなわちもしかしたら自分が嫌われるとい
う不利をご存知でした。しかしそういう不利をもものとはされません。真摯に求める
者のところには来てくださるのです。
第三に覚えていただきたいことは、イエスさまに来ていただくことで、人間は変え
られるということです。テキストは「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい
人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返しま
す」と言ったのです。
先ほど私は、「真摯に求める者を、主はとりあえず受け入れてくださる」と申しまし
た。それは最近の「罪人は、そのままで受け入れられる」という神学をけん制するた
めにそう言ったのです。実際、聖書の救いの記事はすべて、「神さま。こんな罪人の
私をあわれんでください(ルカ18:13)」と罪を認め、神に憐れみをもとめているも
のばかりではありません。このザアカイの記事でも、彼が明確に主に罪の告白をして
いるというものではないでしょう。しかし彼が「だまし取った物は、四倍にして返」
すというのは、罪を認めたからであり、「財産の半分を貧しい人たちに施」すと言う
のは、彼自身が主に出会って変えられたからでありましょう。
1ヨハネ1:9は「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方で
すから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」と教えてい
ます。ですから、罪を告白することは救われるために必須ですが、聖書の記事は、
はっきりと罪の告白をしているものばかりではないでしょう。つまり、その後の生活
で、その人が主に出会って、悔い改めたかどうかがわかると信じます。
たとえ直ちに生活が変わらない人でも、悔い改めている人は、罪の悲しみがありま
すから、必ず変えられていくものです。イエスさまを信じたといいながら、まるで痛
みも感じないかのように罪の生活を続けているなら、あるいは金持ちのザアカイが、
恐らくはお金の亡者であったように、イエスさまを信じたといいながら、いつまで
たってもお金の亡者で、主に献金もできないのでは、その悔い改めの質が問われま
しょう。ザアカイなら「主よこれからは、少なくとも、収入の半分は献げます」とい
うかもしれません。ザアカイは、お金のことでかくもフリーになり、喜びに変えられ
たのです。
イエスさまは、「きょう、救いがこの家に来ました」と言われました。何が救いなの
でしょう。ザアカイはお金がなかったわけではないでしょう。お家もあったでしょ
う。おそらく使用人もいたでしょう。別に健康がすぐれなかったわけではないでしょ
う。
彼になかったもの、それはイエスさまがおられなかったのです。どれだけ裕福でも、
どれだけ健康でも、もしイエスさまがその心の内においでにならないなら、その人は
失われているのです。イエスさまは、「きょう、救いがこの家に来ました。この人も
アブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たので
す」といわれました。
最後に至って、これは驚くべき主のお言葉です。実はザアカイが、求めているかに見
えたとしても、事実は、すでに主が探しておられたということです。
あなたはいかがですか? その心の内に主がおいでになりますか?おいでにならな
いと、乾きますね。しかしザアカイが乾いて求めたように、真摯に主を求めるなら、
主はあなたの所に来てくださいます。そしてあなた自身を、根底から作り変えてくだ
さいます。そしてザアカイが「大喜びでイエスを迎えた」ように、あなた自身を、大
喜びで満たしてくださいます。ですから、喜びの人生、今とは違う、主に喜ばれる変
えられた人生を歩みたいと願う人は、真摯に、熱心に主にお会いしたいと願おうでは
ありませんか。
祝福を祈ります。アーメン